雨 水 川 海 雲
 
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
佐賀平野は、いまちょうど田植えの真っ最中のようです、
市内を流れる多布施川の水量が、いつもよりとても多いようです。
なみなみとたたえられて流れるこの水面を見ながら、考えました。
 
親鸞聖人は、水や川や海などで、例えを、たくさんしておられます。
 
 きれいな水も、汚れた水も川に流れ、
やがて、海にそそげば、皆同じ塩味の海水になるように、
お念仏の人は、皆ともに救われると、
繰り返し、繰り返し説かれています。
 
 この海にながれ込んだ水は、そこで、終わりを迎えてしまうのでしょうか。
そうではなく、太陽の光に照らされ暖められると、
やがて水蒸気となって大空に昇ります。
 
空高く昇った水蒸気は、冷やされて、また、雨となって地上にそそぎます。
あるものは、田植えの終わった田圃の上に、
あるものは、乾き切った畑に。
 
地球上に降り注いだ雨は、また、川に流れ出し、
それはやがて大きな川になり、また海にたどり着きます。
 
こうした水の循環の周期は、一週間とも10日間とも言われます。
短い時間に何度も、何度も姿を変えてこの地球上で
活躍しているのです。
 
 お釈迦様が説かれた、大無量寿経の往相還相の教えを、
親鸞聖人はこの自然現象を通して味あわれたのではないかとも思います。
 
 水蒸気が、雨となって降ったように、
私たち人間もこの地球上に生まれてきました。
 
雨が降った場所がさまざまで、活躍することも、いろいろと違いがあるように、
人間も生まれる場所も、その人生もさまざまあるものです。
 
 
雨はやがて、共に海に流れ込み、
暖められて水蒸気になるのと同じように、
人間も、人間としての一生を終わって、死を迎え、
お念仏の人は、お浄土に往生し、阿弥陀如来と同じさとりを
得て活躍出来る。
 
こうしたイメージは、人間がお浄土に往相し、
やがて、この世に還相し、すべての生き物を
救う働きと、どこかに似ています。
 
長い川を延々と旅するものもあれば、
河口の近くに降る雨もあるように、
長い人生もあれば、短い人生もあるものです。
 
しかし、地球に降った雨は、自分で損だ得だと考えることは無く、
好き嫌いを言う事なく、身直なものを平等に潤して、
さまざまな汚れを抱え込んで海に流れ込み、その一生を終えるのです。
 
私たちも、この雨のようにどこに生まれようと、
どんな人生を送ろうと、それを素直に受け止めて、
自分で出来ることを精一杯働かせていただいて、
やがて、また海に戻り、雲になり、雨になって多くの人びとの為に
働きたいものです。
 
 お念仏は、こうした自然の現象と同じように、
人間が自分自身の能力を最大に生かすことが出来るように、
教えようとされているのではないでしょうか。
 
今、与えられた条件に不足を言わず、その条件を十分に生かし尽くした

人生を
力いっぱい送りたいと思います。
妙念寺電話サービス、次回は6月26日に新しい内容に変わります。
お電話ありがとうございました。
 
 
                        ( 平成 9年 6月22日〜 第230回 )