月の光の届かないところは一つとしてないが、
月はながめる人の心にこそやどる。
(一)勧修寺村の道徳が、明応二年の元日、蓮如上人のもとへ新年のご挨拶にうかがったところ、 上人は、「 道徳は今年でいくつになったのか。 道徳よ、念仏申しなさい。 念仏といっても自力と他力とがある。 自力の念仏というのは、念仏を数多く称えて 仏に差しあげ、その称えた功徳によって 仏が救ってくださるように思って称えるのである。 他力というのは、弥陀におまかせする信心が おこるそのとき、ただちにお救いいただくのであり、 その上で申す他力の念仏は、お救いいただいたことを、 ありがたいことだ、ありがたいことだと喜んで、 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかり なのである。 このようなわけで、他力というのは他の力、 如来の本願のはたらきという意味である。 この信心は臨終まで続き、浄土に往生する のである 」 と 仰せになりました。 |
蓮如上人御一代記聞書き現代語版より
本願寺出版社 平成11年発刊
蓮如上人御一代記聞書
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(四)
「 <念声是一>.<ねんしょうぜいち> という
言葉がありますが、もともと念は心に思うことであり、
声は口に称えることですから、これが同じであると
いうのは、いったいどのような意味なのか
わかりません 」 という質問があったとき、
蓮如上人は、「 心の中の思いは、おのずと表に
あらわれると世間でもいわれている。
信心は南無阿弥陀仏が心に届いたすがたで
あるので、口に称えるのも南無阿弥陀仏、
心の中も南無阿弥陀仏、口も心もただ一つで
ある 」 と仰せになりました。
(五)
蓮如上人は、「 ご本尊は破れるほど掛けなさい、
お聖教は破れるほど読みなさい 」 と、対句にして
仰せになりました。
(六)
「 南無というのは帰命のことであり、
帰命というのは弥陀を信じておまかせする心である。
また、南無には発願回向の意味もある。
発願回向というのは、弥陀を信じておまかせする
ものに、ただちに弥陀の方からこの上なくすばらしい
善根功徳をお与えくださることである。
それがすなわち南無阿弥陀仏である 」 と、
蓮如上人は仰せになりました。
(七)
加賀の願生と覚善又四郎とに対して、
蓮如上人は、「 信心というのは、仰せのままに
お救いくださいと弥陀におまかせしたそのときに、
ただちにお救いくださるすがたであり、
それを南無阿弥陀仏というのである。
どれほどわたしたちの罪があろうとも、弥陀に
おまかせした信心の力によって消してくださる
のである 」 と仰せになり、
『浄土真要鈔』 の 「 はかり知れない昔から、
迷いの世界をめぐってつくり続けてきた罪は、
弥陀を信じて南無阿弥陀仏とおまかせした
そのときに、さとりの智慧をそなえたすぐれた
本願の力によって滅ぼされ、この上ないさとりを
得るまことの因がはじめて定まるのである 」 と
いう文を引かれてお話しになりました。
そして、このこころを書き記し掛軸にして、
願生にお与えになりました。
(八)
三河の教賢と伊勢の空賢とに対して、蓮如上人は、
「 南無というのは帰命のことであり、仰せのままに
お救いくださいと、弥陀を信じておまかせする心である。
この帰命の心そのままが、弥陀の発願回向の
はたらきを感得する心である 」 と仰せになりました。
(九)
「 『安心決定鈔』 に、< 他力の救いを長い間
わが身に受けながら、役に立たない自力に執着して、
むなしく迷いの世界をめぐり続けてきたのである > と
あるのがどうもわかりません」と申しあげたところ、
蓮如上人は、「 これは、他力の救いを頭で理解した
だけで、信じることのできないものをいうのである 」 と
仰せになりました。
(十)
「 『安心決定鈔』 に、< 弥陀の大悲が、迷いの
世界につねに沈んでいる衆生の胸のうちに満ち
あふれている >と ある言葉がどうも納得できません 」 と、
福田寺のj俊が申しあげたところ、
蓮如上人は、「 仏の清らかな心を蓮の花とすれば、
その花は衆生の腹の中でというより胸で咲くと
いった方がぴったりするだろう。
同じ、『安心決定鈔』 には、< 弥陀の身と心の
功徳が、あらゆる世界の衆生の身のうち、
心の底までいっぱいに入ってくださる >とも
述べられている。
だから、大悲の本願を疑いなく信じて受け取った
衆生の心を指して、胸といわれたのである 」 と
仰せになりました。
このお言葉を聞いてj俊はじめ一同は、ありがたいこと
だと喜んだのでありました。
(十一)
十月二十八日の逮夜のときに、蓮如上人は、
「 <正信偈和讃> を おつとめして、阿弥陀仏や
親鸞聖人にその功徳を差しあげようと思っている
のであれば嘆かわしいことである。
他宗では、勤行などの功徳を回向するのである。
しかし浄土真宗では、他力の信心を十分に
心得るようにとお思いになって、親鸞聖人の
ご和讃にそのこころをあらわされている。
特に、懇切にお書きになった七高僧の
お書物のこころを、だれもが聞いて理解
できるようにと、ご和讃になさったのであり、
そのご恩を十分に承知して、ああ尊いことだと
念仏するのは、仏恩の深いことを聖人の
御前で喜ばせていただく心なのである 」 と、
繰り返し繰り返し仰せになりました。
(十二)
「 お聖教を十分に学び覚えたとしても、
他力の安心を決定しなければ無意味なことである。
弥陀におまかせしたそのときに
往生は間違いなく定まると信じ、
そのまま疑いの心なく臨終まで続く、
この安心を得たなら、浄土に往生することが
できるのである 」 と仰せになりました。
(十三)
明応三年十一月、報恩講期間中の二十四日の
夜明け前、午前二時ごろのことでした。
わたくし空善は、夜を通してご開山聖人の御影像の
前でお参りしていたのですが、ついうとうとと眠って
しまい、夢とも現実ともわからないうちに
次のようなことを拝見しました。
聖人の御影像がおさまっているお厨子の後ろより、
綿を広げたようにかすみがかった中から、
蓮如上人がお出ましになったと思って、
目を凝らしてよくよく拝見すると、
そのお顔は蓮如上人ではなく
ご開山聖人だったのです。
何と不思議なことかと思って、すぐにお厨子の中を
うかがうと、聖人の御影像がありません。
さてはご開山聖人が蓮如上人となって現れ、
浄土真宗をご再興なさったのであるといおうとした
ところ、慶聞坊が、聖人のみ教えについて、
「 たとえば木も石も擦るという縁によって
火が出るようなものであり、瓦も石ころもやすりで
磨くことによって美しい石となるようなものである 」 という
『報恩講私記』 の文を引き、説法する声が聞こえて
夢から覚めました。
それからというもの、蓮如上人はご開山聖人の
生まれ変わりであると、信じるようになりました。
(十四)
「 人を教え導こうとするものは、まず自分自身の
信心を決定した上で、お聖教を読んで、そのこころを
語り聞かせなさい。
そうすれば聞く人も信心を得るのである 」 と
仰せになりました。
(十五)
「 弥陀におまかせして救われることが
たしかに定まり、そのお救いいただくことを
ありがたいことだと喜ぶ心があるから、
うれしさのあまりに念仏するばかりである。
すなわち仏恩報謝である 」 と、
蓮如上人は仰せになりました。
(十六)
ご子息の蓮淳さまに対して、蓮如上人は、
「 自分自身の信心を決定した上で、他の人々にも
信心を得るよう勧めなさい 」 と仰せになりました。
(十七)
十二月六日に、蓮如上人が山科の本願寺より
摂津富田の教行寺へ出向かれるというので、
その前日の五日の夜、たくさんの人が
上人のもとへやって来ました。
上人が 「 今夜はなぜこれほど多くの人が来て
いるのか 」 とお尋ねになったところ、
順誓が、「 一つには、先日の報恩講のときに、
ありがたいご法話を聴聞させていただいたこと
へのお礼のため、
もう一つは、明日から富田へ出向かれますが、
今日のうちならお目にかかることができます。
それで、年末のお礼を申しあげるために参った
のでしょう 」 とお答えしました。
そのとき蓮如上人は、「 何とも無意味な
年末の礼だな。
年末の礼をするのなら、信心を得て
礼にしなさい 」 と仰せになりました。
(十八)
「 ときとして、おこたりなまけることがある。
これでは往生できないのではなかろうかと
疑い嘆くものもあるであろう。
けれども、すでに弥陀をひとたび信じておまかせし、
往生が定まった後であれば、なまけることの
多いのは恥ずかしいことであるが、
このようになまけることの多いものであっても、
お救いいただくことは間違いない。
そのことをありがたいことだ、ありがたいことだと
喜ぶ心を、弥陀の本願のはたらきにうながされて
おこる心というのである 」 と、
蓮如上人は仰せになりました。
(十九)
「 すでにお救いいただいた、ありがたいことだと
念仏するのがよいのでしょうか、
それとも、間違いなくお救いいただく、
ありがたいことだと念仏するのがよいのでしょうか 」
とお尋ねしたところ、
蓮如上人は、「 どちらもよい。
ただし、仏になるべき身に定まったという
正定聚の利益においては、
すでにお救いいただいたと喜ぶ心であり、
浄土に往生して必ず仏のさとりを開くという
滅度の利益においては、お救いいただくことに
間違いはない、ありがたいことだと喜ぶ心である。
どちらも仏になることを喜ぶ心であって、
ともによいのである 」 と仰せになりました。
(二十)
明応五年一月二十三日に、
蓮如上人は、攝津富田の教行寺より
京都山科の本願寺に戻られて、
「 今年から、信心のないものには
会わないつもりである 」 と、
きびしく仰せになりました。
そして、安心とはこういうものであると、
いっそう懇切にお話しになり、また、
誓願寺の僧に能を演じさせ、
人々に念仏をお勧めになりました。
二月十七日には、はやくもまた富田の教行寺へ
出向かれ、三月二十七日には、境の信証院より
山科へ戻られました。
翌二十八日に蓮如上人は、「 <自信教人信> の
こころを人々に説き聞かせるために、こうして
行き来しているのである。
行ったり来たりするのも骨の折れることではあるが、
出かけて行ったところでは、信心を得て、喜んで
くれるので、それがうれしくて、こうしてまたやって
来た 」 と仰せになりました。
(二十一)
四月九日に、蓮如上人は、「安心を得た上で、
ご法義を語るのならよい。
安心に関わりのないことを語るべきではない。
弥陀を信じておまかせする心を
十分に人にも語り聞かせなさい 」 と、
わたくし空善に対して仰せになりました。
(二十二)
四月十二日に、蓮如上人は境の信証院へ
出向かれました。
(二十三)
七月二十日に、蓮如上人は京都山科の
本願寺に戻られ、その日のうちに
『高僧和讃』 の、
五濁悪世のわれらこそ
金剛の信心ばかりにて
ながく生死をすてはてて
自然の浄土にいたるなれ
さまざまな濁りに満ちた悪世に生きる
わたくしたちこそ、決して壊れることのない
他力の信心ただ一つで、永久に迷いの世界を
捨てて、阿弥陀仏の浄土に往生するのである。
を引いてご法話をされ、さらに次の
金剛堅固の信心の
さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護して
ながく生死をへだてける
決して壊れることのない他力の信心が
定まるそのときに、弥陀の光明は
わたしたちを摂め取り、永久に迷いの
世界を離れさせてくださる。
の和讃についてもご法話をされました。
そして、「 この二首の和讃のこころを
語り聞かせたいと思って、京都に戻ってきた 」 と
仰せになり、「 <自然の浄土にいたるなり>
< ながく生死をへだてける >と お示し
くださっている。
何とまあ、うれしく喜ばしいことではないか 」 と、
繰り返し繰り返し仰せになりました。
(二十四)
「<南無>の <無>の 字を書くときには、
親鸞聖人の書き方を守って、<无>の字を
用いている 」 と、蓮如上人は仰せになりました。
そして、「南无阿弥陀仏」を金泥で写させて、
それをお座敷にお掛けになり、「 不可思議光仏
という名も、無碍光仏という名も、ともにこの
南無阿弥陀仏の徳をほめたたえた名である。
だから、南無阿弥陀仏の名号を根本としなさい 」
と仰せになりました。
(二十五)
「 『正像末和讃』 の、
十方無量の諸仏の
証誠護念のみことにて
自力の大菩提心の
かなはぬほどはしりぬべし
すべての世界の数限りない仏がたは
真実の言葉で本願他力の救いを
お示しになり、お護りくださる。
そのお言葉によって、自力でさとりを
求めてもさとりを開くことはできないと
知らされるのである。
という一首の心を聴聞させていただきたいの
です 」 と、順誓が申しあげたとき、
蓮如上人は、「仏がたはみな弥陀に帰して、
本願他力の救いをお示しになるのを役目と
されているのである」と仰せになりました。
また、上人は仰せになりました。
「 世のなかにあまのこころをすてよかし
妻うしのつのはさもあらばあれ
この濁った世において、出家して尼に
なりたいなどという心は捨てるがよい。
牝牛の角は曲がっているけれども、
それはそれでよいのである。
という歌がある。これはご開山聖人の
お詠みになった歌である。
このように外見の姿かたちはどうでもよいことであり、
ただ弥陀におまかせする信心が大切であると
心得なさい。
世間にも <頭は剃っていても心を剃っていない>
という言葉がある 」 と。
(二十六)
鳥部野をおもひやるこそあはれなれ
ゆかりの人のあととおもへば
鳥部野に思いを馳せるのはとりわけ
悲しい。縁のあった人たちを葬送した
ところだと思うから。
という歌がある。
これも親鸞聖人のお詠みになった歌である。
(二十七)
明応五年九月二十日、
蓮如上人は、ご開山聖人の御影像をわたくし
空善に下され、ご安置することをお許しになりました。
そのありがたさはとてもいい尽くせないほどでした。
(二十八)
同じ年の十一月、報恩講期間中の二十五日に、
ご開山聖人の御影像の前で蓮如上人が 『 御伝鈔 』 を
拝読されて、いろいろとご法話をされました。
そのありがたさはとてもいい尽くせないほどでした。
(二十九)
明応六年四月十六日、
蓮如上人は京都山科の本願寺に戻られました。
その日、厚めの紙一枚に丁寧に包まれている
ご開山聖人の御影像の原本を取り出されて、
上人ご自身の手でお広げになり、
「 この御影像の上下にある賛文は、ご開山聖人の
ご真筆である 」 とおおせになって、一同のものに
拝ませてくださいました。
そして、「 この原本は、よほど深いご縁がなくては
拝見できるものではない 」 と仰せになりました。
( 三十 )
「 『高僧和讃』 に、
諸仏三業荘厳して
畢竟平等なることは
衆生虚誑の身口意を
治せんがためとのべたまふ
仏がたのすべての行いがまことで清らかであり、
まったく平等であるのは、衆生の嘘やいつわりの
行いを破ってお救いになるためであると、
曇鸞大師は述べておられる。
というのは、仏がたはみな弥陀一仏に帰して、
衆生をお救いになるということである 」 と、
蓮如上人は仰せになりました。
(三十一)
「 信心を得て、その後信心が続くというのは、
決して別のことではない。
最初におこった信心がそのまま続いて尊く思われ、
この信心が生涯貫くのを、<憶念の心つねに>
とも <仏恩報謝> ともいうのである。
だから、弥陀におまかせする信心をいただくことが
何よりも大切なのである 」 と、
蓮如上人は仰せになりました。
(三十二)
「 朝夕に <正信偈和讃>をおつとめして念仏する
のは、往生の因となると思うか、それともならないと
思うか 」 と、蓮如上人が僧たち一人一人に
お尋ねになりました。
これに対して、「 往生の因となると思う 」 という
ものもあり、また、「 往生の因とはならないと思う 」 と
いうものもありましたが、
上人は 「 どちらの答えもよくない。
<正信偈和讃> は、衆生が弥陀如来を信じて
おまかせし、この信心を因として、このたび浄土に
往生させていただくという道理をお示し
くださったものである。
だから、そのお示しをしっかりと聞いて信心を得て、
ありがたいことだ、ありがたいことだと親鸞聖人の
御影像の前で喜ぶのである 」 と、繰り返し
繰り返し仰せになりました。
(三十三)
「 南無阿弥陀仏の六字は、この上なくすばらしい
善根功徳をそなえたものであるから、他宗では、
この名号を称えて、その功徳をさまざまな仏や
菩薩や神々に差しあげ、名号の功徳を自分の
もののようにするのである。
けれども、浄土真宗ではそうではない。
この六字の名号が自分のものであるなら、
これを称えてその功徳を仏や菩薩に差しあげる
こともできるだろうが、名号はわたしたちが
阿弥陀仏からいただいたものである。
だから、わたしたちは、ただ仰せのままに
浄土に往生させてくださいと弥陀を信じて
おまかせすれば、ただちにお救いいただくのであり、
そのことをありがたいことだ、ありがたいこと
だと喜んで、念仏するばかりである 」 と、
蓮如上人は仰せになりました。
(三十四)
三河の国より浅井氏の先代の夫人が、
蓮如上人にこの世でのお別れのご挨拶をしようと、
山科の本願寺にやって来ました。
ちょうど富田の教行寺へ出向かれる日の朝の
ことでしたので、上人は大変忙しくしておられ
ましたが、それでも夫人にお会いになって、
「 念仏するのは、名号をただ口に称えて
その功徳を仏に差しあげようとするものでは
決してない。
仰せのままにお救いくださいと
たしかに弥陀を信じておまかせすれば、
ただちに仏にお救いいただくのであり、
それを南無阿弥陀仏というのである。
だから、お救いいただいたことを、ありがたいことだ、
ありがたいことだと心に喜ぶのをそのまま口に
出して、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と
申すのである。
これを仏恩を報じるというのである 」 と
仰せになりました。
(三十五)
順誓が蓮如上人に、「 信心がおこったそのとき、
罪がすべて消えて往生成仏すべき身に定まると、
上人は御文章にお示しになっておられます。
けれども、ただいま上人は、命のある限り罪は
なくならないと仰せになりました。
御文章のお示しとは違うように聞こえますが、
どのように受けとめたらよいのでしょうか 」 と
申しあげました。
すると上人は、 「 信心がおこったそのとき、
罪がすべてみな消えるというのは、信心の力
によって、往生が定まったときには罪があっても
往生のさまたげとならないのであり、だから、
罪はないのと同じだという意味である。
しかし、この世に命のある限り、罪は尽きない。
順誓は、すでにさとりを開いて罪というものは
ないのか。
そんなことはないだろう。
こういうわけだから、お聖教には、<信心が
おこったそのとき、罪が消える> とあるのである 」
とお答えになりました。
そして、「 罪があるかないかを論じるよりは、
信心を得ているか得ていないかを何度でも
問題にするがよい。
罪が消えてお救いくださるのであろうとも、
罪が消えないままでお救いくださるのであろうとも、
それは弥陀のおはからいであって、わたしたちが
思いはからうべきことではない。
ただ信心をいただくことこそが大切なのである 」 と、
繰り返し繰り返し仰せになりました。
(三十六)
「 『正像末和讃』に、
真実信心の称名は
弥陀回向の法なれば
不回向となづけてぞ
自力の称念きらはるる
真実信心の称名は、阿弥陀如来から
衆生に回向された行であるから、法然聖人は
それを衆生の側からいえば不回向であると
名づけられて、自力の念仏を退けられた。
とある。
弥陀におまかせする信心も、また、尊いことだ、
ありがたいことだと喜んで念仏する心も、
すべて弥陀よりお与えくださるのであるから、
わたしたちが、ああしようかこうしようかとはからって
念仏するのは自力であり、だから退けられるので
ある 」 と、蓮如上人は仰せになりました。
(三十七)
無生の生とは、極楽浄土に生まれることをいう
のである。
浄土に生まれるのは、迷いの世界を生まれ変わり
死に変わりし続けるというような意味ではなく、
生死を超えたさとりの世界に生まれることである。
だから、極楽浄土に生まれることを無生の生と
いうのである。
(三十八)
「回向というのは、弥陀如来が衆生を
お救いくださるはたらきをいうのである」と、
蓮如上人は仰せになりました。
(三十九)
「 信心がおこるということは、往生がたしかに
定まるということである。
罪を消してお救いくださるのであろうとも、
罪を消さずにお救いくださるのであろうとも、
それは弥陀如来のおはからいである。
わたしたちが罪についてあれこれいうことは
無意味なことである。
弥陀は、信じておまかせする衆生をもとよりめあて
としてお救いくださるのである 」 と、
蓮如上人は仰せになりました。
(四十)
「 身分や地位の違いを問わず、このように
みなさんと同座するのは、親鸞聖人も、すべての
世界の信心の人はみな兄弟であると仰せに
なっているので、わたしもそのお言葉の通りに
するのである。
また、このように膝を交えて座っているからには、
遠慮なく疑問に思うことを尋ねてほしい、しっかりと
信心を得てほしいと願うばかりである 」 と、
蓮如上人は仰せになりました。
( 四十一)
『 信文類 』 の 「 愛欲の広い海に沈み名利の
深い山に迷って、必ず仏になる身と定まったことを
喜びもせず、真実のさとりに近づきつつあることを
楽しいとも思わない 」 というお言葉について、
お弟子たちが、これをどう理解すればよいのか
思い悩み、「 愛欲に沈み名利に迷う身で、往生
できるのであろうか 」 、「 往生できないのでは
ないか 」 などと、お互いに論じあっていました。
これを蓮如上人はものを隔てたところからお聞きに
なって、「 愛欲も名利もみなわが身にそなわった
煩悩である。
わが身の上をあれこれ心配するのは、自力の心が
離れていないということである 」 とお諭しになり、
「 ただ弥陀を信じておまかせする他に何も
いらない 」 と仰せになりました。
(四十二)
ある日の夕暮れどき、多くの人が取り次ぎも
頼まずにやって来ました。
慶聞坊がそれをとがめて、「 何ごとか、すぐに
退出しなさい 」 と荒々しく叱りつけたところ、
蓮如上人がそれをお聞きになって、「 そのように
叱るかわりに信心について語り聞かせて返して
やってほしいものだ 」 と仰せになりました。
そして上人が、「信心のことは東西に走りまわって
でも話して聞かせたいことである 」 と仰せになると、
慶聞坊は涙を流し、「 間違っておりました 」 と
お詫びして、信心についてご法話をされました。
その場にいた人々はみな感動して、とめどなく
涙があふれ出たのでした。
(四十三)
明応六年十一月、この年蓮如上人は山科本願寺の
報恩講においでにならないことになったので、
実如上人が法敬坊を使いにやり、「 今年は大坂に
おられるとのことですが、報恩講はどのように
いたしましょうか 」 とお尋ねになりました。
すると蓮如上人は、今年からは、夕方六時より
翌朝六時までの参詣をやめてみな立ち去るように
という御文章をおつくりになって、「 このように
なさるがよい 」 と仰せになりました。
また、「 御堂に泊まってお護りするものも、その日の
当番の人だけにしなさい 」 とも仰せになりました。
一方で、蓮如上人は七日間の報恩講のうち三日を
富田の教行寺でおつとめになり、二十四日には
大坂の御坊に出向かれて、おつとめになりました。
(四十四)
明応七年の夏より、蓮如上人はまたご病気に
なられたので、五月七日、「 この世でのお別れの
ご挨拶をするために親鸞聖人の御影前にお参り
したい 」 と仰せになって、京都山科の本願寺に
お戻りになりました。
そしてすぐに、「 信心を得ていないものには
もう会わない。
信心を得たものには呼び寄せてでも会いたい、
ぜひとも会おう 」 と仰せになりました。
(四十五)
新しい時代の人は、昔のことを学ばなければ
ならない。
また、古い時代の人は、昔のことを
よく伝えなければならない。
口で語ることはその場限りで消えてしまうが、
書き記したものはなくならないのである。
(四十六)
赤尾の道宗がいわれました。
「 一日のたしなみとしては、朝の勤行をおこたらない
ようにと心がけるべきである。
一月のたしなみとしては、必ず一度は、親鸞聖人の
御影像が安置されている近くの寺へ参詣しようと
心がけるべきである。
一年のたしなみとしては、必ず一度は、ご本山へ
参詣しようと心がけるべきである 」 と。
この言葉を円如さまがお聞き及びになって、
「 よくぞいった 」 と仰せになりました。
(四十七)
「 自分の心のおもむくままにしておくのではなく、
心を引き締めなければならない。
そうすると仏法は気づまりなものかとも思うが、
そうではなく、阿弥陀如来からいただいた信心によって、
心のなごむものである 」 と、
蓮如上人は仰せになりました。
(四十八)
法敬坊は九十の年までご存命でありました。
その法敬坊が、「 この年になるまで仏法を聴聞させて
いただいたが、もう十分聞いた、これまでだと思った
ことはない。
仏法を聴聞するのに飽きた、足りたということは
ないのである 」 といわれました。
(四十九)
山科の本願寺で蓮如上人のご法話があったとき、
あまりにもありがたいお話であったので、
これを忘れるようなことがあってはならないと思い、
六人のものがお座敷を立って御堂へ集まり、
ご法話の内容について話しあいをしたところ、
それぞれの受け取り方が
異なっていました。
そのうちの四人は、ご法話の趣旨とはまったく
違っていました。
聞き方が大切だというのはこのことです。
聞き誤りということがあるのです。
最終は、(314)です。
つづきをどうぞ
(その2、その3、その4)あり
御一代記聞書続き (五十)へ
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(尚、内容を転用する場合は、本願寺出版社に
必ず了承をお取りください・妙念寺)
掲載者 藤本 誠