第1270回 仏教の「救い」 とは  ➀

 平成 29年 6月1日~

 龍谷大学で 仏教を教えておいでのお医者さん、田畑正久先生は、
「 仏の智慧に 触れてみると、自分の力だと 思っていたのが、
多くのおかげさまの中での歩みだった、と知らされます 」と。

 人間の 生老病死という四苦を どう解決するか ということに、
今、私は、医療と仏教の両面から取り組んでいます。 

 日本の公的病院には 宗教者がほとんどいません。もしも病院の中で 
お坊さんを見かけたら、誰か死んだのだろうかと 思われるでしょう。
仏教は 生きた人を相手にしているということ自体が、あまり知られていないのが現状です。

 大分県国東市の病院で院長をしていた時、病院内で仏教講座を始めたら、
ある内科の先生から「 なんでそんな 余分なことをやるんですか 」と 言われました。
そのくらいに仏教は 医療と関係がないと思われています。

 仏教は 二千五百年もの間、生老病死の苦の解決に取り組んできました。
具体的に どんな取り組みをしてきたのかを まずご紹介します。
「私の思い」「私の現実」の間に 差があることが、  思い通りにならない
というかたちで「苦」になります。
この「苦」を どうすれば 解決できるのかというと、一つは、 病気をしたとか怪我をした
という状態を 元の健康の状態に戻す、 というのが、この差を 縮めるための方法になります。
それは医療の分野が知識・技術を総動員して取り組むべきことです。

 しかし、この健康の状態に戻すということが、できなくなった時、老いや 病気に直面して
避けることができず、死を確実に迎えるという状態になったら、この人の悩みや苦しみを
救うことができるでしょうか。
医療界は今、病人を健康にするということで 苦を少なくするとの考えが中心で、医学が
依って立つ科学的思考では、それ以外にありません。

 それに対して、仏教では、苦を 少なくする方法は私の思い私の現実
差を縮めるためには、禅宗で言うならば 悟りを開く、浄土教で言うと 信心 をいただく、
そういう智慧の世界に出会い、その結果として「私の思い」が「私の現実」を 受容する
ということになるのです。

 こういう世界があることを、科学的な教育だけを受けてきた医師や看護師は まったく
知らないわけです。
病気で苦しむと同時に、病気はいやだ、困ったものだと、良くならない病気への思いでも
さらに苦しむことになるのです。
病気の現実を 受け取れないがために苦しむ、二重の苦しみが生じます。
仏教には「 二の矢を受けない 」という教えがあります。

一の矢は 縁次第で 逃れることはできません。
でも 多くの日本人は 初詣などで神社仏閣に行くと、無病息災・家内安全・商売繁盛などを
祈って、一の矢を受けないようにしたいと願っています。 
それは いくら神仏にお願いしても無理な話です。 ましてお寺で 一の矢を受けないようにして
くださいと祈るのは、まったく仏教とかけ離れた思考です。     
「 二の矢を 受けない 」というのが 仏教の救いに つながるのです。


 大分県内の四ヵ所で 月一回会座を開いていますが、別府の会座で、九州大学名誉教授の
先生が 八十歳前後の頃に後輩の私の話を聞きに来てくださっていました。話の後の座談の席で
先生はこう言われました。
「 私は、人間の苦しみを救うのは、病気を健康にするしかないと思っていました。
  この現実を受容するというかたちで、この差が縮まるなんて、今まで 聞いたことも、
  考えたこともありませんでした 」と。

 医学教育をする側の先生方も、この現実を 受容するなんてあり得ない、死ぬまで闘うしか
ないと思っておられるわけです。
病に捕まって 死を迎えることは、病は マイナス、死も マイナスですから、まさに不幸の完成で
人生を終わっていく と言わざるを得ないのです。

 現代は経済にしても哲学にしても、生きている私たちだけの話、いわば命あっての物種です。
生まれる前(過去)から 死んだ後(未来)までの三世を超えた救いというのは、宗教でないと
考えられないわけです。

 仏教が教える 救いは、目覚めと一体となっています。
目覚め、悟りを得て 仏の智慧をいただかないと、この現実を受容するという発想は
受け取れないのです。この仏の智慧の世界が どういうものなのかが 大きな課題となります。

 仏の智慧、つまり仏智をいただくには、二つの方法があります。 
一つは、私が お釈迦さまと同じように出家して、身と心を修め、努力に努力を重ねて、
仏に 近づくという方法です。これを聖道門といいます。 
お釈迦さまがなさったことを踏襲すれば きっと仏の世界に行き着くだろうというのは、誰もが
思いつく自然な発想です。 
しかしこれはやってみないと、どこまで行けるかはわかりません。


 もう一つの方法は、仏のほうから 私たちを迎えとっていただくという浄土門の教えです。
愚かで迷いを繰り返しているこの私は、お釈迦さまと同じ道を歩むことなど とても無理なことだと思う。
お釈迦さまが亡くなられて以来、修行者がたくさんいても、お釈迦さまに匹敵する指導者は出ていない。
さらに家族を養わなければいけない在家者は仕事も顧みず 一心不乱に 修行に専念するという

わけにはゆかない。
そういう私たちに対して「 念仏する者を 浄土の世界に迎える 」という教えを 説いてくださって
いるのです。南無阿弥陀仏という名前となって、迷える私に 仏の智慧(無量光)と、いのち(無量寿)を
届けられている。


 現代の日本で仏教は、それほど注目されているとは言いがたいのが現状です。
それは科学的合理主義によって 便利で豊かな生活が実現していて、仏教などなくても幸せ

そうな人が たくさんいるからです。
確かに物質的な豊かさは 実現できたかもしれませんが、先ほどから申しております 老病死は、
科学的合理主義で 完全に解決できているのでしょうか。
治療や薬で 良くなった人もいるでしょうが、三人に一人は ステージⅣを経験しています。

そういう人たちにとっては 科学的合理主義の考え方では 幸せな生き方とは言えません。

 そこに自分が迷っているという気づきがなければ、仏教は要らないのです。  
仏教である以上、共通の原則は 転迷開悟( 迷いを転じて悟りを開く )です。

仏教に関心を持つ者は、自分の現実を 仏さまの光に 照らされてみてはじめて、やはり迷って
いる自分であったと 感じることができるのです。

その時に、自分が努力精進して悟りを開くことができるなら、その方法でがんばっていけば
いいと思います。しかしそれが 不可能な自分には、浄土の教えがあるのです。こんな私を
目当てに 本願が 南無阿弥陀仏という念仏となって 智慧といのちを 届けてくれるのです。

                        田畑正久師 在家仏教協会講演より


          


           私も一言(伝言板)