第1254回 他力廻向は 超・大転回

 
平成29年2月9日~

 仏教は、往相という道にとどまっていないのです。
自利利他円満が仏の位です。

道を求めて、如来の智慧に出遇い得たならば、無上菩提の
種子をもって、再び三界雑生の中に、人々に伝えるために還って
来なければならないのです。

曇鸞大師の「浄土論註」に、「無上菩提の種子、畢竟じて朽ちず」
とある、これが還相回向です。

 往相と還相の二種は、如来の本願力回向です。
自分の知恵才覚で どうにかなる道が行きづまり、その行きづまりを
自力無効とうなづく時が、はじめて如来の他力回向に出遇う時です。
往還二回向は、「教行信証」全巻の骨格になっている、私たちの
常識を翻す思想です。

知恵才覚によって努力していく向上の道は、我々の自力の構造
そのものですから、非常に分かりやすいのです。

しかしながら、天親菩薩の「浄土論」ですでに、「空過」という
言葉で指摘された、「空しく過ぎる」、自己のいのちを見失うという、
人間として生きることの本来的課題を超えられないのが自力です。

  本願力にあいぬれば    むなしくすぐるひとぞなき
   功徳の宝海みちみちて  煩悩の濁水へだてなし(『高僧和讃』)

 結果を得るためにだけ努力してきた人生が、望む結果を
得られなかった時、すべての努力してきた人生が無意味となっていく、
「空しく過ぎる」という残されたものの大きさ、そこから空しく
過ぎることのない人生の課題と向かい合っていく時、知恵才覚による
善人意識がくじかれて、凡夫に帰されて、凡夫にうなづかさせられた所が、
他力回向との出遇いが待っている場です。

それが「功徳の宝海みちみちて」と表現されてあります。
これから宝を発見するのではなくて、今まで生きてきた人生、
むだだったものを足蹴にし、放り投げてきたものが皆、宝であったと
再発見するまなざしが言われています。

 ごく当たり前の普通の生活。こうして家族で生きていられる
という普通の生活。何かそうではない、特別なものを求め続けてきた
ことから翻って、当たり前の中に、かけがえのない無限の意味を
見出していけるまなざし。本願力に遇うということから、自己の
いのちと世界が、本来の輝きを取り戻すことが言われています。

      歎異鈔と現代 札幌大谷大学学長 厳城孝憲師
         在家仏教29年 3月号から 一部抜き出し



          


           私も一言(伝言板)