第1253回 法蔵菩薩 と 阿弥陀仏

 平成29年 2月 2日~

 正信念仏偈を拝読しておりますと、「法蔵」という「菩薩」の名前が出てきますが、

一体、阿弥陀仏とどのような関係にあるのでしょう。

 ちょっとびっくりされるかもしれませんが、阿弥陀仏は、はじめから「阿弥陀」という
「仏」として いらっしゃったわけではありません。さとりを開かれる前は、
「法蔵」という「菩薩」のお姿をとっておられたのです。

 この「菩薩」というのは、「さとりを開いて仏となる前のお姿」を指していうもので、
「自らさとりを求めるとともに、他のすべての人々も救おうとするもの」
という意味があります。


 阿弥陀仏が[法蔵菩薩]というお姿をとっておられた時のご様子は、
『仏説無量寿経』というお経のなかに、詳しく説かれています。
そこには、[世自在王仏]という師仏のもとで、さまざまな教えを聞いて、
五劫という長い時間をかけて思案をめぐらし、どのような仏になりたいのか
という四十八種類の願いをお立てになった。

 そして、はかり知ることのできない長い時間をかけて、その願いを成し遂げるために
修行し、さとりを開いて阿弥陀という仏となっていらっしゃる」と説かれています。


 ところで、時折、「仏さんは、誰でも一緒だから、拝んでおけばよい」というふうな
とをおっしゃる方がおられます。
なるほど、阿弥陀仏であっても、薬師仏であっても、毘盧遮那仏であっても、
「さとりを開いていらっしゃる仏」ですから、同じようにお感じになるのでしょう。


 では、私たちが風邪を引いた時に、誰でも良いからといって、美容外科の先生を訪ねる
でしょうか。確かに、内科や外科の先生であっても、必ず身につけていらっしゃる知識や
技能といったものがありますから、共通しているところがあるでしょう。
しかし、一口に医師といっても、さまざまな分野にわたっていらっしゃるのではないでしょうか。


 「菩薩」は、「仏」となることを志した時、「すべてのものに、さとりを開かせよう」と
いう願いはもちろん、これとは別に、「どのようなものをめあてに、どのようにして救い 
取るのか」という願いをお立てになっていらっしゃいます。ここに、仏の個性というもの
があらわれてくるのです。


 そのなか、「法蔵菩薩」は、「煩悩という病にかかって、自らの力では治すことのできな
いものを、浄土に往生させて、さとりを開かせたい」という願いを立てていらっしゃるの
です。そして、「はかり知ることのできない長い時間をかけて(阿弥陀仏という仏となられ
た)」ということは、襄を返せば、それほどまでに、私たちの病は重篤なものであり、
れは、阿弥陀仏によってしか治癒することのできないものであるということでしょう。


            なるほど浄土真宗 佐々木義英師 本願寺出版社


          


           私も一言(伝言板)