第1239回 欲を拝んでいた私

平成28年 10月 27日~

 仏教を聞いている人でも根深いところに必ず抱えているのが
自分の都合です。
「娘の目が悪くなり始めたので、お医者さんや薬を遠くまで求めた
けれど一向に良くならない。

この上は、家のお仏壇の阿弥陀さまにお願いするしかないと
朝晩お念仏を称えていたら、不思議と目が良くなり字が読めるようになった。
これこそ、阿弥陀さまのご功徳、お慈悲です」とある御門徒の

お母さんが語っていたそうです。
皆さんは、どう思います。


 「阿弥陀さまなら、そのくらいのご利益はありそうだ。
実際、この母娘だって治ったからな」といった人間の都合の声が
あちこちから聞こえそうです。
では、真実をお説きになる仏・如来はなんといわれるでしょう。


「あなたたちは、いつになったら分かってくれるのだ。
この世には、自分の身勝手な都合を満たしてくれる神仏など
どこにもいないのだということに気づいてくれと、御仏がたは
一所懸命伝えようとしているのだよ。

そして、都合ばかり、欲ばかりをおいかける自分の身の程を知ってくれよ。
そこが、いつでもどこでも共に救われる要だよ」と。
これが道理のお言葉です。

 法然上人(一一三三~一二一ニ)は、「祈りによりて病も息み、
いのちも延ぶることならば、誰かは一人として病み死ぬるものあらん」
といわれました。

 この世は、そうなる縁があればそうなり、そうなる縁がなければ
そうならぬのです。
そうなる原因に、条件(縁)がととのい、結果となる。
これを、因と縁によって、すべてのものは生起している
因縁生起(縁起)といいます。

病が治るのも、治らぬのも、すべてさまざまな因と縁で生起するのです。
都合が満たされればおかげさま、満たされねばご利益がないというなら、
縁起という真実の道理を示す如来さまを拝んでいるのではなく、自分の
欲望を拝んでいるわけです。

 仏教は、どこまでもこのことを私に呼びかけます。神仏の神秘的な
霊力によって欲を叶わせ、奇跡をおこすのが仏教ではありません。
すべての事象は、縁起によるのであり、唯物論者でも、他宗教の人でも、
そして釈尊といえどもこの道理を無視することはできないのです。
こうした道理をこの私に教えてくださるはたらきを阿弥陀如来さまと呼びます。

           「いのち、見えるとき」 法蔵館 本多静芳師 より


         


           私も一言(伝言板)