第1226回 親のよび声

 平成28年 7月 28日~

 どんなに記憶力に自信がある方でも、ご自身が自分の親を初めて
よんだ時のことを覚えている人はおられないと思います。

その時はもちろん[お父さん「「お母さん」ではありませんね。
「アーアー」とか「マーマー」 であったかもしれません。

 しかし、子どもが親をよぶ前から、親はわが子の名をどれほど
よんだことでしょう。
それはこの世に誕生してからではなく、まだ母親の胎内に小さな

いのちが宿った時からです。

正式に命名はしていませんが、親はわが子に声をかけずには

おれないのです。
とても数えきれる回数ではありません。

 そして誕生後、母親に抱かれてお乳を飲んでいる赤ちゃんは、
このお乳の中に不純物が混じっているのではないかとか疑う心など
全くありません。

自分を取り落とすのではないかと、不安な気持ちになるわけでもありません。
すべてを母親にゆだねて、安心しきつているのです。

 特に母親は、わが子の名前をよびかけると同時に、自分が
「お母ちゃんだよ」と名のってよびかけます。
それは、どんなことかあってもわが子を見捨ず、しあわせに
せずにはおかないという親心です。

その親心が子どもに届いたならば、教えたわけではないのに、
自然といつの間にやら子どもの口から、親をよぶ声がでてくるのです。

しかし、近年は親によるわが子への虐待が数多く報じられることには

心が痛みます。

 学僧・原口針水師は 「われ称え われ聞くなれど南無阿弥陀仏、
  つれてゆくぞの親のよび声」と詠われています。

必ずわが国(お浄土)へ生まれさせずにはおかないという、
阿弥陀如来のご本願のお救いのはたらきの確かさであります。


 わたくしが「無阿弥陀仏」とお念仏を称え、その称えた
自分の声を自分の耳で聞きます。
そのことすべてが、実は阿弥陀如来のわたくしに対するはたらきかけで
あると よろこばれておられるのです。

 藤井邦麿師 「拝読 浄土真宗のみ教え」の味わい 本願寺出版社より


         


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