第1225回 世界は 誰のために

  平成28年 7月21日~

 無量寿経の勉強会で 仏さまのお話を聞きながら、思いました。

自分のために世界は存在する、世界のすべては、この私のために存在する、
そう考えているのが現代人ではないのか。


そのために、感動のない変化に乏しい、辛い毎日をおくっているのでは
ないのかと。

そうした人間と違って、仏さまは、自分は 世界の為に存在する。

自分が出来ることは何なのか、人々の為になることを見つけ出し、
すぐに実行する、それが仏さまであり、仏さまのはたらきであると
聞こえました。

 誰かのために私が出来ることを見つけ出し、実行しようと思うと、
私が行動する前に、周りの人々がこの私のために、すでにはたらいて
いただいていたことに気づかされます。
私が希望する前に、頼みもしないのに、多くのことが、多くのものがすでに
そこにあり、いつもちゃんと準備されているのです、

これまでは、それが当然だと思い、何も感動しなく、当たり前の生活で
あったことに気づかされます。

ちゃんと、お金を支払っているのだから、それで良いのではないかと、
私たちは考えてしまいます。

しかし、支払うお金以上に、多くの努力、沢山の汗、沢山の方々の、
たゆまぬはたらきが、この私を支え続けており、実行されていたのです。

そう感じられてくると、お返しのつもりで、自分には何が出来るのか。

仏さまのまねをして、少しでも世界のためになること、他の人のために

行動してみても、その何十倍、何百倍、何千倍、何億倍もの多くの力が、
この私を生かしていただくために、すでに はたらいていただいていました。

そう感じられてくると、申し訳なく、もったいなく、こんなことでは
相済みません、申し訳ありませんと、思えてなりません。

 私に出来ることを、どんな小さなことでも、少しづつ取り組んでいく
としても、もっとこの私が出来ることは、ないのだろうか、
それは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を口にしながらの生活をすることではないかと
思えてきました。

仏さまの仲間といっていただく、この私は、世界の為に存在し、

世界にためになることが生き甲斐だと味わえてくる。
世界が私の為に存在するのではなく、私が世界のために存在する。

一人でも、二人でも、仏さまの仲間が増えていくことが、少数ではなく
多数になることが、もっとも大きな、はたらきとなるのではないかと
思います。墓地の草をとる作業でも、一人でやるより、大多数で一斉に
行う方が、はかどります。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を口にする生活、これに勝る善はないのでは、
これに勝るはたらきは、ないのではないか、私の小さなはたらきだけではなく

仏さまに、南無阿弥陀仏の仏さまに、一緒に活躍していただくことが、
もっとも大きなはたらき、私に出来る世界のためになるもっとも
大きく、確かな行動だろうと思えてきました。

そう考えながら、仏さまのお話を聞きました


         


           私も一言(伝言板)