第1224回 私でよかった

平成28年 7月14日~

私が、私でよかった  といえる あなたになれ (中島みどり)

幼い子どもへ、母親の切なる願いを、書き残されたことばです。
私が 私でよかったといえる世界は、存在を 肯定しています。
自分を 肯定しています。しかし、こんな私では ダメだと
多くの人は、思っているのではないでしょうか。


現状を否定することで、奮起して頑張ることもできますが、
なかには、自分のことを完全に否定して 閉じこもり、社会に適応
できない人も 多く見受けます。


草や木など植物をはじめ、ありとあらゆる動物たちを見ていると、
すべての生物は「 これでいい 」「 それでいい 」と、それぞれの存在を肯定し、
認めあって生きているように見受けます。どうも、人間だけが、
自分の存在を否定し、苦しんでいるようです。


それは何に起因するのでしょうか。どうも、私たちが持っている
煩悩に 問題があるのではないでしょうか。
三毒の煩悩といわれる 貪欲( むさぼり )、瞋恚( いかり )、愚痴( おろかさ )が、
私たちを支配しているからなのでしょう。
なかでも 愚痴( 無明 )が、さまざまな場面に出くわしたとき、貪欲や瞋恚と
一緒になって、はたらいていくと考えられます。

それは、どうも、自分の勝手な都合によっているようです。

多くの人が、自分に都合のよいものは、人でも物でも、自分の手元に引き寄せて、
いつまでも 大切に保持していたいのが本音です。
それとは逆に、自分に不都合なものは、自分の視野の外に追い出して
見たくもない というのが正直なところです。 

このことを 突き詰めると、自分に 好都合なものが「 貪欲 」であり、
自分に不都合なものが「 瞋恚 」にあてはまります。 
ですから親鸞聖人は、煩悩具足の凡夫、煩悩成就のわれら と示して 
いただいたのです。

 気づけば、どこまでも あさましい私ですが、そうであればこそ、
仏さまは 見放すことができず、じっと見守り、「 それでいい、それでいい 」と、
やさしく包み込み、 支えていて くださいます。
いつでも、どこでも 仏さまと一緒であると 味わえれば、こんなに 
心強いことはありません。

「 正信偈 」の中に「 道俗時衆共同心( 世のもろびとよ、みなともに  )」。
僧侶も 在家の人も、年寄りも  若い人も、共に同じ心で、如来の大悲に包まれて
生かされて、 生きる道があるのです。


お念仏のみ教えに出遇い、南無阿弥陀仏が聞こえてくると、
人間に生まれてよかった、いま 生かされている、ありがたさ、尊さを
心身いっぱいに、いただいていけるのです。
それがそのまま「 私が、私であってよかったといえる あなた(人)になれ 
ということなのでしょう。それでいいのです。
みんな、同じ仏の仲間、互いに認めあい、存在を  肯定するだけでいいのです。



         


           私も一言(伝言板)