第1204回 私が如来となる

 平成28年 2月25日〜

 人生にはいろんなことがあります。
うれしいこともあれば、悲しいこともある。嫌なこともあれば、
飛び上がるほど感動することもある。

いろんなことがありますけど、要するに「お前の人生なんだったんだ」
といわれたとき、それを一言でおさめることができないと、結局、
人生全体がばらばらで、断片的な思いがパラパラと出てくるだけで
生涯を貫くものは何にもない。
そういう虚しい人生になるのではないでしょうかね。

 そういう意味で出世の本懐、本意、つまり「この世に出現してきた
本意は何か」と問うことは、お釈迦さまの本意を問うだけではなく、
また、親鸞聖人ご自身の本意を問うだけでもなく、各人が自らの
出現の本意をはっきりと確認していくことの大切さに気がつくことだ
と思うのです。

 「正信偈」に「如来所以興出世」と説かれているこのご文を、
親鸞聖人は随分と書きなおしていらっしゃいます。
なかなか満足のいく言葉で表現することが出来なかったのでしょう。

最初は「釈迦所以興出世」(釈迦、世に興出する所以は)と
書いておられました。
でも、それではお釈迦さまだけのことになってしまって、
いわばよそ事ですよね。

そこで親鸞聖人はお釈迦さまのことはしばらく、この出世の本意とは
「私にとって何なのか」と、自分自身のこととしてたずねられたのです。
そして「ああ、このことがわかったら、すべての如来のことがわかるんだな」
と気づかれて、「釈迦所以興出世」じゃなくて、「如来所以興出世」と
表現されたのです。

こうあらわすことによって阿弥陀仏の本願を説くことは
お釈迦さまだけの問題でなく、すべての如来、さらには一人ひとりの
すべての人が自分自身のこととして、はっきりと確認しなければ
ならない問題であるということを、おわかりになられたのでしょう。

 だから出世の本意を明らかにするとは、お釈迦さまが
この世に生まれてこられた所以は何か、それだけの問題ではなかったのです。
すべての仏陀、すべての人びと、それは私自身がこの世に生まれてきた
所以をたずねることだったのです。

それが明らかになったとき、私か如来となる道が明らかになるのです。

                「一味」2014年秋号より 一部抜粋 その2

         


           私も一言(伝言板)