第1205回 則我善親友

平成28年 3月3日〜

私が如来となる道とは「如より来たるもの」「如に至るもの」として
ふさわしい道ということです。


「如」とは仏陀のさとりの領域で、さとりの領域から出て来た
というよりも、むしろさとりの領域に属するものとして生きる、という方が
私には近い感じがします。

私は仏さまの世界から生まれて来たのではないけれども、仏さまの世界に
属するものとして生き、そして仏さまの世界に属するものとして生涯を
全うしようとすることになります。すると「如来所以興出世」といわれた
「如来」の仲間入りをさせてもらうのです。

 何度も申しますが、これはお釈迦さまだけの出世本懐を問題にしている

のではなくて、親鸞聖人の出世本懐であり、私にとっては私の出世本懐で
もあるのです。

あなた方一人ひとりが「お釈迦さまも、親鸞聖人も、法然聖人も、善導大師も、
みな仲間内でございます」と言えるような、そういう立場に立って法を

聞かせていただくとき、同じものが見えてくるのと違いますか。

「浄土がわからない、仏さまがわからない」と言っているのは、
わからないのではなくて、わかろうとしていないのですよ。
そっぽ向いてるからなんです。
そっぽを向いていてわかるはずがないじゃないですか。

わかろうと思ったら同じ視線をたどって、同じ視線で見据えるということが
なければ、仲間の道は見えないでしょ。

 私たちもお釈迦さまの仲間内として、また七高僧さま、親鸞聖人、
蓮如上人、みな仲間うちとして生きさせていただく。そうするとあの方たち
仰る言葉が非常によくわかってくる。「お前あっち向け、俺はこっち向く」
というような、そういう生き方をしていたのでは全然わからないでしょう。


お釈迦さまの仰ることをすっと聞き受けるということは、なかなか出来る
ことではないですね。
だからお釈迦さまも教えを聞いて慶ぶ者は、私の親友であると言われています。


『無量寿経』には「則我善親友」と説かれています。ただの友達ではない。
それこそ刎頸の友と言われるような親友です。
お互いがお互いの心の一番深いところでわかり合うことができている。
そういうことができますと、他にわからないところがいくらあっても、
それはそれでおいておけばいいのです。

みんなそれぞれ違っていいのです。
みんな同じになろうなんてことを考える方がおかしい。
違っていていいのです。けれども究極のところでは一点に集約することの
できるような、そういう一点を持ち合う仲間のことなんです。

阿弥陀さまはその一点を私たちに知らせて下さっているんです。
それが本願のこころ、南無阿弥陀仏なのです。

南無阿弥陀仏という一点に自分の人生を集中して、そこでわかり合い、
話し合える、そういう場を開いていくことが一番大事なことと違いますか、

そのようなことをお釈迦さまの出世本懐を論じられるなかで感じることが
できるわけです。

 ただ、どういう教えを説くのがお釈迦さまの本意だったのかと、
教学的に問題にするということも結構なことですが、そのことよりも、

お釈迦さまと私とが、ご開山さまと私とが、法然聖人と私とが、
南無阿弥陀仏という一点において全く一つだというものがありますと、
話が非常によく通ずるようになるんです。皆さんもどうですか。


「お念仏の教えを聞いてほんとによかったですね。
結構なことですね。ありかたいことですね」とお互いにそう言えるような
身になると、生き方がまったく違っても懐かしい善き友ということになるの
でしょうね。

                   「一味」2014年秋号より 一部抜粋 その3

         


           私も一言(伝言板)