第1203回 出世本懐

 平成28年 2月18日〜

梯實圓和上のご法話に こんな内容がありました。

「正信偈」の「如来所以興出世」のご文は、
「出世本懐」と言い伝えられているお言葉でございます。


そのおこころはお釈迦さまだけでなく、あらゆる仏陀たちがこの世に
出現されご説法をされるのは、ただ阿弥陀仏の本願のおこころを
一人ひとりに知らせて、その一人ひとりが阿弥陀仏のご本願をたのみ、
おまかせする身となってお浄土に生まれていく、そういう身になって

欲しいと願って、この世に出現されたのだと言われているのです。

 何でもない言葉のようですけれども、ここの「如来」とは、

あらゆる仏陀と言う意味です。
私たちは仏さまというとお釈迦さまだけだと考えてしまいます。
けれども仏さまは無数にいらっしゃり、数限り無く出現していらっしゃいます。

その仏陀たちはひとえに阿弥陀さまの本願のおこころを知らせようと
されている、それこそが諸仏が世間に出現される本意であると仰るのです。

 さて、親鸞聖人は ここでどのようなことを言おうとされたのかと
いうことですが、聖人は、おそらく「私は、多くの仏さまのおいでに
なるなかお釈迦さまによって、本願のおいわれを聞かせていただくことが

できた。
それは同時に私がこの世に出現してきた本意は阿弥陀さまの本願を

聞かせていただいて、その道を歩むためであった」と、いうことを仰せに
なりたいわけです。

 出世の本意ということは、ただお釈迦さまだけの出世の本意ではなくて、
すべての仏さまの出世の本意のことであり、同時にすべての人の出世の

本意でなければならないと思うのです。

「お前は何のために生まれてきたのだ」と問われたとき、どう答えるか
ということです。
「私は、このご本願を聞かせていただくために生まれてきた」ということが
はっきりと味わえたなら、あとのことはどうでもいいでしょう。

どうでもいいと言ったらなんですけど、あとはついでに生きているような
ものばかりです。

また逆に、その本意がぼけてしまったら、一生涯を通じていろんなことを
やってきたとしても、おそらく何か虚しい思いのなかで終わらなければ
ならないのではありませんか。

                「一味」2014年秋号より 一部抜粋 その1


         


           私も一言(伝言板)