第1200回 人にまけて信をとる

 
平成28年 1月28日〜


 『蓮如上人御一代記聞書』という全三百十四条で蓮如上人のご法語を
記した書物が残されています。
その書物の中で「無我」ということについて、


 仏法には無我と仰せられ候ふ。われと思ふことはいささかあるまじきことなり。
 われはわろしとおもふ人なし・これ聖人(親鸞)の御罰なりと、御詞候ふ。
                       (「註釈版聖典」 1257頁)

 仏法には無我にて候ふうへは、人にまけて信をとるべきなり。
                                 (『同』 1282頁)
と仰せであります。厳しい誡めの言葉です、「我」とは「はからい」
「執着」です。

自己のはからい、自己の執着しているすがたを「我」といいます。

それを打ち消すのが「無」です。
仏法は「我」を捨てることにあります。
すべては如来さまがお導きくださる、それが仏法なのです。


 ところが世間では、いや、自分自身を振り返ってみても「私がしてやった」
「私が育ててやった」「私が教えてやった」と、何事にも「我」が
つきまとっています。

「如来さまがお導きくださったお蔭でございます」とはなかなかいただけず、

どうしても「自分が、自分が」といって、自己にとらわれるばかりなのです。
そのような心を「いささかあるまじきことなり」と戒めておられます。

われはわろしとおもふ人なし、これ聖人(親鸞)の御罰なり‘というのは、

これは親鸞聖人からのお叱りであるというのです。
親鸞聖人が何よりも「私が、私が」と思うことはいけないとお伝えくださって
いるのに、みんな「私はよい」ことになっているのです。

「悪いのはお前、私は悪くない。
 私は一生懸命やっているのにお前が悪いから……」
と相手をすぐに非難するのです。

いいことだけは「私がやった」「私のお蔭で」「私が育てた」と
独り占めしようとするのです。
このことを我執というのです。

 これほど恐ろしいものはないのですが、みんなその恐ろしさに
気が付いていません。
それどころか我執を自慢したりしています。


そのことがいかに私たちの心を歪めてしまっているでしょうか。
これを我慢、自己慢心というのです。
浄土真宗のみ教えはそのような自己慢心を捨てていくところにあります。

 蓮如上人は「人にまけて信をとるべきなり」(『蓮如上人御一代記聞書』
                              『註釈版聖典1282』
とも仰せです。

人に勝とうという心を捨てなさいということです。

私たちはすぐに人と比較し競争しようという気持ちがおこります。
それは何よりも恐ろしい傲慢な心なのです。

 しかし、それらの心から離れるべきでありますが、自らの力では
離れることのできない凡夫でありますから、み教えにお育てをいただく
ことによって、自ずから「お恥ずかしいことでありました」と
気付かせていただく身とさせていただくのです。
それが離れるということです。

        瓜生津隆真師著 やさしく語る親鸞聖人伝 本願寺出版社


         


           私も一言(伝言板)