第1201回 母の背中で聞く

 平成28年 2月4日〜

勧学の大田利生先生が、大乗という月刊誌にこんな文章を
お書きいただいています。


 今、私はどうしてもお名前をあげたい二人の方がおられます。
一人はウイルス学、電子顕微鏡学の世界的権威であった東昇さん、
そしてもう一人は多くの書物を遺された随筆家の岡部伊都子さんです。


 東さんは、「母ありき」というエッセイ(京都新聞・一九七五年)
の中で、私は生まれる前から親鸞に近づけられ、念仏を母の背中で
聞きながら育てられた、と言われています。

また岡部さんも京都新聞「現代のことは」(一九九八年)の中で、
母は自分がお仏壇にむかって読経するとき、背に抱きついている

私にしっかり聞かせようと思って必ず一段と声を張り上げて、
白骨の御文を唱えていました、と。

 お二人に共通しているのは母の背中を通して聞いておられるとい
うことです。
それは、お念仏の声であり、白骨の御文章でありました。

現代は、直接会って会話する、あるいは聞く、そして互いの人格に
接するという機会が少なくなりました。

視覚の文化といわれるように、メディアの発達、隆盛によるもので
ありましょう。
しかし、そういう時代であればこそ顔を合わせ、話を聞くために
足を運ぶことを大切にしなければと思うことです。

 親鸞聖人は、その著述の中で「身」という語を多く用いられます。
和讃に「小慈小悲もなき身にて」「染香人のその身には」と

詠っておられます。

頭で聞いたり理解するだけではなく、この身の上に聞いていく
ということです。

法然聖人から念仏の教えを聞かれたのですが、人格にふれられた
こともしばしば強調されます。

 したがって、聞くということは、私全体で聞くということであり、
体をとおして聞くということです。
日常生活の中で孫と一緒にお寺の法話を聞きに行く、一家でお仏壇に

お参りする、こんな光景を見たり聞いたりいたします。

そこに、お法が伝わっていくということの原点があるといえましよう。

              大乗 平成28年2月号 巻頭法語より

         


           私も一言(伝言板)