第1172回 憶念の心

平成27年 7月16日〜

『ご和讃』の初めに「冠頭讃」という和讃があります。
『三帖和讃』全体の最初に置かれた和讃ということで「冠頭讃」と
いう呼び方をします。「冠頭讃」は二首あり、

  弥陀の名号となへつつ
  信心まことにうるひとは

  憶念の心つねにして  仏恩報ずるおもひあり
                          (「註釈版聖典」五五五頁)

 初めの一首目が、この和讃です。
そこには、阿弥陀如来の名号を称えながら、信心をまことに得た人は
どうなっていくのか。

「憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」、

このような言い方をしておられます。

「憶念の心」というのは、いつまでも憶えていて、忘れないという心です。
いつまでも憶えていて忘れない……、そういう心が常に続いていく。
そして、それがそのまま「仏恩報ずるおもひ」になっていくと。


 皆さん方の中にも、還暦を過ぎた方が多いと思います。
私も還暦を過ぎております。
そのような歳になりますと若い時と比べて記憶力が低下してきますし、
憶えていてもすぐに思い出せない、そういうことが多くなってきます。

したがって、忘れてもよいようにメモするわけですが、今度は
そのメモした紙がどこに行ったかわからない、ということもよくあります。

このようなことを考えてみますと、いつまでも憶えていて忘れない
ということは、私たちが頭で憶えるという憶え方ではないのではなかろうかと
思います。

では、いつまでも憶えていて忘れないというのは、どういうことでしょうか?

 これについて、「浄土和讃」「勢至讃」に、

    子の母をおもふがごとくにて  衆生仏を憶すれば

   現前当来とほからず 如来を拝見うたがはず
                           (「註釈版聖典」五七七頁)

と讃えられた和讃が参考になります。
ここには「子の母をおもふがごとくにて」と表現されるように、
衆生と阿弥陀仏との関係を親子の絆で讐えてあるところに

味わい深いものが感じられます。

そして衆生が阿弥陀仏の本願を信ずる身になれば、この世においても
あるいは将来浄土に生まれても、如米は遠くかけ離れた存在ではなく、
さまざまな形となって拝見できることは疑う余地もありませんと示されています。

如来と遠くかけ離れていないということは 慈悲のぬくもりに包まれていると
実感できることでもあります。

   
本願寺出版社 白川晴顕師著 妙好人のことば 信心とその利益 より

         


           私も一言(伝言板)