煉獄華 その3 |
滝が診療所に着くと、玄関には『本日休診』の札がかけられていた。 ドアには鍵がかかっておらず、中で相澤はあの花を調べているのかな、彼はそう思いながら気軽に入っていった。 あの看護師も今日は来ていないみたいで、待合室はがらんとしていた。奥の方で何やらごそごそと音がし、相澤はそこだろう、と滝は診察室のドアを開けた。 すると、髪がぼさぼさになり、顔に焦燥感を浮かべた相澤が、必死に顕微鏡をのぞいている姿が彼の目に映った。 相澤の周囲には、試験管立てに挿してある、さまざまな色の液体を入れた試験管が並び、さらにそのまわりは膨大な量の医学書で埋めつくされていた。 彼はた滝の存在に気付いて振り返り、 「滝さんか」 と、これまた尋常ならざる声でつぶやき、また顕微鏡に目を落とした。 滝は彼の異様な雰囲気におびえながら、 「どうしたんです?こんなに部屋を荒らして」 「私には妻と子供が二人いる」 「はい?」 滝は相澤の話が見えず、あ然とした表情で立ち止まった。 「うちの奴はまだ子供を欲しがっている。恐らく次が最後のチャンスだろう。そんな時に、自ら危ない橋を渡るまねを、私はしたくない」 ますます訳がわからず、滝は困惑して、 「何言ってるんですか相澤さん、僕、この事件の真相がわかりかけてきたんですよ」 「私にもわかりかけてきた」 再び振り向いた相澤の目には、狂気とも取れる色が浮かんでいた。 「この花はね、魔性の花だ。本来花粉とは、植物が子孫を残すために使われる大事なものなんだ。しかしこの花の花粉は皮肉なことに、人が子孫を残すのに悪影響を与える」 「どういうことですか。僕はただこの花粉は、人に」 「この花粉には、催奇性の薬物が含まれている」 「さいきせい……」 「この薬物を取り込んだ人間が、性交し受胎すると、奇形の子供が産まれてくるということだ」 滝は驚きを通り越して、足腰の力が抜けるのを感じた。 「恐らく前世の因縁だろう。あの町の人間はすべて、あの花に侵されているんだ。だから出来た子供はみな、かたわになる運命を背負っている」 「ちょっと待ってください。僕は医学的なことはよくわかりませんが、この花粉が人間の肉を食い破ることを発見しました。この花粉に触れた指先から、血が吹き出たんです」 と滝は相澤に右手の人差し指を見せた。もう血は止まっていて、小さな血の固まりが赤黒く残っている。が、相澤は、 「そんなものは君、この花粉が持つ恐ろしい性質の一つに過ぎない」 と一蹴し、 「この花粉に含まれる薬物の成分は、昨今話題のサリドマイドとよく似ている。しかし、サリドマイドは自然に出来るものではない。化学的に合成されて、はじめて発現する。この花粉も同様だ。この花が、自らの力で作り出したものだ。それはなぜか、わかるか」 滝は横に首を振った。 「人間を呪うためだ。これに近付く人間を根絶やしにしよう、とこの花は考えたんだ。これは伊東さんの言ったような神の罰ではない、自然からの警告だ。私たちは触れてはいけないものに触れてしまったんだ。だから私はこの件から降りる。君にも一切手を貸さん。この町からも離れる。もしこれ以上この件とかかわったら、妻を狂気に陥れることになる。そして私も、子供も、だ」 「じゃあ、ここの人はどうなるんですか!呪い云々はどうでもいいですけど、こんな危ないもの、ここに放置したままにしておくんですか!」 「データは町立病院に送る。それに、あの花の処置は君らの方が専門じゃないのか?」 「確かにそういうのは保健所の仕事かもしれませんけど、第一発見者の、しかも医者のあなたが、陣頭に立って問題に取り組むのが筋なんじゃないですか?」 「だから言ったろう、私は降りる。もうこの件には関わりたくない。君も早くこの町から出て行った方がいい」 滝は、ぐっ、とつまった。彼がこの土地まで来たいきさつを考えると、この地から出て行くことは出来ない。 「僕には、仕事がありますから……」 「かたわを産む運命をかかえて、ここに留まる気か。君がそれを覚悟したのなら、それでもいいが」 「いえ、ちが……」 「君もまだ私に関わるつもりかね!これ以上私を巻き込むな!出て行け!」 と突然、相澤は半狂乱になって試薬入りの試験管をぼんぼん滝に投げつけてきた。そのほとんどは滝の手前で落ちたが、試験管は割れ、中の試薬が飛び散る。 滝はその中に、あの花の花粉が入っているかと思うと恐ろしくなって、あわてて診療所を飛び出した。 滝が診療所を出た頃はまだ日が高かったが、気がつくと彼は夕日の醸し出す赤い光の中にいた。 ここはどこだろう。 あたりを見回すと、木々の繁った低い山に囲まれていることに、彼は気付いた。 ああ、ここはさっき訪れた廃鉱だ。 目を落とすと、相澤が魔性の花だ、と呼んだ赤い花が咲き乱れ、背後を見ると先の事務所が目に映った。 そのすべてがこの花のように、夕日に照らされ赤く染まっている。 敷地内にはもう誰もいないらしく、静かでがらんとしている。子供もみな帰ったようだ。 そこまで確認して、彼は、自分がどうやってここまで来たか、まったく覚えていないことに気付いた。 考えられるのは、彼が無意識のうちに駅へ向かい、茫然自失のまま切符を買って汽車に乗り込み、あやまたずに炭鉱前の駅で降りて、ここまで歩いてきた、ということだ。それより他に説明のしようがない。 彼は坑道の入り口に足を進め、咲き誇る赤い花に目を向けた。 この花は何を思って、子供にケガなどを負わせたのだろうか。 いや、草木がものを思うことはないかもしれないが、少なくとも人間に危害を及ぼすために、この花は薬物を我が身に宿したわけではないだろう。 それは、この植物が自然の厳しい生存競争に生き残るため、身につけた技であろうか。 とすれば、せっかくこの山でひっそり咲いていたのを、土足で荒らしてしまった人間に災厄が及ぶというのも、無理からぬことかもしれない。 かといって、この地が人の住むテリトリーとなったからには、彼は立場上この花を放ってはおけない。 今すぐには、財政難で役場から人を出すことは出来ないが、いずれ保健所や、県が動いてこの花を何とかしてくれるだろう。 彼のやるべきことは、上への報告以外、もうない。 それに、いくら彼や組織が動いたところで、手足を失った子供たちが元に戻るわけではない。 無力感が彼を襲う。 と、そこへ、 「何しに来たんですか、お役人さん」 滝は驚いて背後を見ると、さっきの年老いた事務員が立っていた。 「何、と言われましても、……短く言うと、いつの間にか僕、ここへ来てたんです」 「花を処理されるんじゃないんですか」 滝はあっけに取られ、 「どうしてその話を……」 「相澤さんから連絡が来て、この花に関する話を聞きました。びっくりしました。私もそんな事実があったなんて、思いもしませんでしたから」 滝は無言で事務員を見た。 「あなた町役場の職員でしょう?だったら、そんな危ない花、さっさと撤去してください」 滝はあわてて、 「ちょっと待ってください、こんな花、僕一人で処理するなんて無理です。あと何日かしたら援軍が参りますから、注文はその時にでもお願いします」 「いつもあんたたちのやり方は後手後手だ」 事務員は苦々しく言った。 「炭鉱が潰れたのも、あんたたちが無策だったからだろう?景気のいい時はどんどんやれって牛馬のように働かせ、石炭がダメになったらクビ切るだけ切って、後は残務整理を任せる、なんて切り捨てる。昔っから役人はいっつもそうだ」 「それは会社の話でしょう。僕らは関係ありません」 「若いくせに、もう役人面してやがる。三池争議の時、あんたの仲間は何をやった?しょせん、資本と役人はグルなんだよ。役人はまったく、保身のことしか頭にない」 「でも、この花とそのこととは別問題です。第一、花の正体がわかったのは今日のことですから」 「関係ないね。ここで何もせずに帰ったとしたら、あんたは最低の人間だ。役人は労働者を見捨てるばかりでなく、子供まで見捨てるのか、この税金ドロボー!」 もうかなりな歳のはずなのに、彼の語調は荒かった。そして嫌なものを見まいとするように振り向き、足早に行ってしまう。 滝はその弁舌に呑まれた訳ではないが、何だかここで何もせずに帰るのは、人としてどうか、という気がしてきた。 無論、花を処理しようと考えたのではない。 自分はどうしても坑道へ行かなければならない、そういう義務感を抱いたのだ。 彼の足元には魔性の花粉を帯びた、たくさんの赤い花が咲いており、恐れを抱きつつ慎重に、危険な花畑を踏み越えていく。 やがて坑道の入り口に至る。 不思議な事に、昼間あれだけ厳重に設けられていた黄色いバリケードが、今は跡形もない。 中に入れ、ということだろうか。 滝は心の声に従って、坑内に足を踏み入れた。 坑内は外から見た印象と違い、意外に広かった。ちょっとした二車線車道のトンネルくらいはある。 中には夕日の赤い光が、坑道の入り口から射し込んでおり、先の事務員が言っていた通り、陽と同じ色の花が咲き乱れていた。 いや、夕暮れと同じ色ではない。昼間の日のもとで見た時よりも、さらに毒々しい赤色を呈しているように滝には見えた。 まるで、本当に人の血を吸っているかのように。 その血の絨毯に導かれるように、彼は坑道の奥へと進んだ。 そこは陽の光は当たっておらず、暗くて何も見えない。 それでもなお、滝は一歩一歩、足を前に出す。 歩いていくうちに彼は、坑道はある程度進むと行き止まりになり、その真下が縦穴になっている、という鉱山の構造を思い出した。 このまま進めば、彼は縦穴に落下してしまう。 だが滝は、歩くのを止めなかった。 歩みを止めれば、何か不気味なことが起きる、そう感じたからだ。 入り口が西の方に向いているからだろうか、時間が経つにつれて、坑道の奥にも赤い光が射してきた。 見ると、坑道はまだ続いているようで、いつまでたっても縦穴が現れる様子はない。 それどころか、そんなところにさえ赤い花が群れて咲いていた。 そしてその奥から、何やら音が聞こえてきた。 最初かれは、縦穴が崩れて岩が落ちた音かと思ったが、次第にそれが人の声だとわかるようになった。 それも、ただの人の声ではない。 嬌声だった。 滝は歩みを止めた。 嬌声は次第に彼の方に近付き、やがてその声の主が、まだ薄く光の届く奥の方からうかがえるようになった。 その正体を見た時、滝は恐怖というより、まず既視感を覚えた。 片手、もしくは両手のない、子供の群れ、だった。 くるぶしから下がない子もいて、その子はびっこを引きながら他の子供についていこうとしている。 彼らの表情は、長屋で見たのと同じように明るく、まるで遊びに行こうとしているかのごとき、軽やかな足取りで彼の方へと近付いてきた。 かたわの子供が、大挙して、こちらに、来る! 滝は畏れのあまり、寄るな、と叫びたかったが、なぜか声が出ない。 子供たちは彼のことなど眼中にないかのように、彼の横を通り過ぎていく。 やがて彼らは全員表へ出てしまったのか、嬌声が聞こえなくなり、また静かな坑内に戻った。 滝の足は、恐怖で凍りついたままだった。 伊東翁の、相澤の言葉が、頭の中を去来する。 山の神のたたりだ。人間への呪いだ。 その言葉に額面通り恐怖したのでは、ない。 たたりであれ呪いであれ、何らかの原因でああなってしまった子供たちがいる、という事実に、恐怖したのだ。 しかし先ほどの光景は、果たして現実なのだろうか。 基本、坑内に子供は入れないし、また入れたとしても、夕刻になるまで坑道の奥にいたとは考えにくい。 日も落ち、坑内もたいがい暗くなってきたところで、ようやく彼の足は自由を取り戻した。 もう帰ってもいい頃合いだったが、好奇心が先立ち、彼はさらに坑道の奥へと足を進めた。 すると彼は、さらに違和感を禁じえない光景に出会った。 まだひとり、子供がいるのを見たのだ。 しかも彼は四つんばいで、先ほどの子供たちを追うかのように、出口へ向かってゆっくりと進んでいた。 その歩みがあまりにもゆっくりだったので、いぶかしんだ滝は子供を注視した。 そして滝は見た。 その子供には、手足が全部ないのだ。 ほとんど地べたを這うような格好で、滝のもとへ近付いてくる。 その表情は明るい、というよりは、白痴のような根拠のない笑みを浮かべていた。 滝の体は、また凍りついた。 やがて子供の姿は、日の光が坑道からそれるとともに、暗闇の中へ消えていった。 滝は振り返った。 かすかに赤い光が、坑道の口からうかがえる。 彼はそこに向け、全速力で走り出す。 ここに長くい過ぎると、彼ら不具の子供たちのようになってしまうのではないか、そう思われてならなかったのだ。 表へ出ると、あの子供たちはおろか、事務員の姿まで消えていた。 そして、陽は山の端に隠れようとしている。 花々は暗闇に包まれて、血が固まったような黒い色を呈していた。 |