クロノス・天使と戦う男 その11

十一

 クロノスは、残る力をふりしぼってマリ子のこころに戻ると、家に帰って部屋にこもるよう、彼女に頼んだ。

 その帰り道もマリ子は泣いていたが、それを家族に悟られないよう、家に入っても誰とも顔を合わせずに、部屋へと急いだ。

 そして彼に云われた通り、ドアに鍵をかけ、ベッドの横にいすを置いて座ると、ベッドの上に体を横たえた形で、クロノスが姿をあらわした。

「ごめんなさい!」

 彼女はクロノスを抱きしめようとしたが、その体は幻影だったので、彼女はベッドの上に激突した。

「おいおい、あわてるなよ。いま実体になってやるから」

 そして彼が実体になると、改めてマリ子は彼を抱きしめ、その体のあたたかさの中に身をゆだねた。

「俺の方は実体になんなくてもいーんだけどな。お前のこころから、びんびん伝わってきてるぜ」

「伝わってるって、何が?」

「……うーん、なんとも云えんな。こころの話って、ことばでするもんじゃないから……」

「こころのはなし?」

「まーいーや、どーせこの話しても、お前まだ判んねーから。それよか、わざわざ家に帰ったのは、お前に大事な話があるからだ」

 彼女は腕をからめたままなずくと、彼から体を離し、しかし彼の右手を両のたなごころで包んで、クロノスの顔を見つめた。

「いいか、これからする俺の話聞いてもお前、自分を責めたりするなよ。多分、なるべくしてそーなったんだろーから。いいな」

「ええ」

「今の戦いであいつらから受けた傷は相当なもんだ。こないだの奴とは違う、かなりの連中だったから、それだけ傷も深い」

 自分を責めちゃいけない、そう自分に云い聞かせながらも、マリ子のこころの中は、彼を最初から信じられなかったことへの深い後悔の思いで満たされ、涙がさらにあふれ出た。

「だがもちろん、お前のこころに俺の影がある限り、俺は絶対に死なん。死にはせんが、回復には時間がかかりそーだ」

「時間かかるって、どれくらい?」

「そーだな、俺がもし自分保てないほど傷ついた場合の、回復時間を割り出してある。それだと、だいたいこっちの時間で二百年、ってとこか」

「二百年!」

 マリ子は驚きのあまりそう叫んで、目をぱっちりと開いた。

「まあ聞けよ。今日の傷はそこまでは行ってない。こんだけしゃべれるくらいだからな。それにしても、結構かかるぞ。俺の全そんざいを百として、俺の影の五十があるから差し引いて、この傷は……二十八、あたりだな。つまり、五十を回復するのに二百年かかるから、その半分ぐらい、百年あまり、か」

「そんなに長い間、わたしの前からいなくなっちゃうの?それに、わたしそんなにも長生きできないじゃない!ダメよクロノス!どんなに時間がかかってもいいから、わたしのそばにいて!」

 マリ子は彼を握る手に強く、力をこめて云った。

「だから、早合点するなって。俺はどこにも行かねーよ。お前のこころの中にいるさ。なんせ、治すのに必要な、俺の影があるところだからな」

 マリ子はほっとしてため息をつき、目を閉じた。

「それに、百年かかんねーかも知んねーぜ。ことによると」

「ほんと?」

 マリ子は体をせり出し、笑顔を咲かせた。

 クロノスも笑みを浮かべ、

「百年、ってのはただふつーの人間のこころに影があるときだ。けどお前は違う。ふつーじゃない。どー普通じゃないかとゆーと、俺と同調できるくらい、俺とこころの相性がいいんだ。たぶん、治療もはかどるぜ」

「ねぇ!その治療、同調してやってみたら?わたしと同調したら、戦っても強かったじゃない。それなら治療も、あっという間に出来ちゃうんじゃない?」

「ほう……いーところに目をつけるな。でも、残念ながら同調して治療する方法、俺知らねーんだ。たぶんそれも、一緒に探すことになるだろーな。だが今回は俺一人の仕事だ」

「ごめんね、わたし何も出来なくて」

 マリ子の顔から明るさが消えると、

「ばーか。お前のせーじゃねーよ。気にすんなって。どっちみち、一人でいろいろやってみてーことがあるからな」

「やってみたいこと?」

「いや……………それはいま、お前に話してもたぶん判んねーだろう。ことがはっきりしてきたら、そのうち話すさ」

「そう……あ、ひょっとして、体治してる最中、わたしと話出来ないのかな?そうだったら、わたしあなたのそんざい、感じることができるから」

「いや、それは出来ん」

 クロノスは淋しく云い放った。

「俺が出て来れない間、天使がまたお前のこと狙いに来るかもしんねーから、こないだみたいなバリアー張っとく必要があるんだ。体治しながらバリアー張って、その上お前と話すとなると、それぞれの仕事が中途半端になって、時間がかかる恐れもあるし、まんいち奴らが襲ってきたら、お前守る方も支障をきたすかもしれん。俺も残念だけど、俺の仕事に専念させてくれ」

「…判ったわ……ごめんなさいわがまま云って」

「いいってことよ。さあ、ムダ話の時間は終わりだ。とっとと体、治して次の戦いに備えなくちゃいけねえ。じゃあ俺、お前のこころに戻るぜ」

「待って!」

「え、なんだ。早めに済ましてくれ」

「もしあなたの治療中に、わたしが死んだらどうなるの?」

「お前が死んでも、お前の魂は……まだ残っている。俺はそこでまた、治療を続けることになるだろうな。どっちにしろ、お前と一緒だ。お前のことは俺が見てやってるから」

「じゃあ復活したら必ず、かならずわたしのそばに帰ってくるって、約束して!」

「だからぁ、別に俺、どっか行っちゃうわけじゃないんだから……あ、そーだ」

 とクロノスは、手を宙にかざすとふっ、と何かをつかんだ。

 そして彼女の前で手を開くと、そこにあったのは彼女の十字架であった。

「え、これ、わたし、捨てたのよ」

「お前ら人間は、なにかモノがあるって思うとき、かならずかたち、をそのものに求める。そして形のないものは、そんざいしない、そう思う。お前は俺によく実体の形求めるけど、俺はそんな形じゃない。でも、今のお前にはまだその仕組み判んねーだろーから、この十字架、俺のかたち、って思ってかけてろよ。そーすりゃ、少しは落ち着くぜ。それに、聖書も読めよ。あれはある種の真実が書かれてある。でも、誤った解釈しかされないから、こないだ見た、あんなこと引き起こす。でもたぶん、お前は読んでいーはずだ。それと、仕事もじゃんじゃんやれ。まー、無理しないてーどにな。まあ相当時間はかかるかも知れないけど、いずれ帰ってくんだから、心配すんなよ。もしお前が死んでいたら、あっちの世界できっと逢えるから」

「あ、ありがとう。でも……」

「ん?」

「でも、なんでわたしに、そんな優しくするの?あなた前、そんなんじゃなかったじゃない」

「……そーだな……俺は今まで、ヒュノスと例の女の子以外は人間についてどーこー、思ったこたーない。けどお前には、なんかこー……その…今までにない、特別な気持ち、持ち始めたよーな気がする。つまり……」

 とクロノスは、ふっと微笑みを浮かべ、

「……お前を、好きになってきた、気がするんだ」

「え、クロノ…」

「いけねー、しゃべり過ぎた、疲れてきやがった。じゃ、待ったはもうなし、行くぞ」

 クロノスは、何のためらいも見せずにいきなり姿を消し、彼の持っていた十字架がぽとり、と音を立ててベッドの上に落ちた。

 マリ子はそれを拾い上げると、いすに座ったままひざの上で固く両手を結び、彼の不在を悲しむ気持ちを抑えようと、しばらく一人で努力した。


*     *     *


 それから五日後、クロノスに渡された十字架を下げたマリ子が、そこにいた。

 彼女はあれから二日ほど、クロノスのいない辛さに何ごとにも手に付かなかったが、思い切って十字架をかけると、自分でも驚くほどにこころが落ち着いた。

きっと、クロノスが十字架に、落ち着ける魔法かけたのね…

 彼女はそう思って、仕事を再開した。

 そして彼女は以前の調子を取り戻した、どころか、以前よりも彼女の画力、構成力、スピードなど、仕事にかかわる能力がパワーアップしていた。

 彼女はそれも、クロノスの魔法だと思い込んだ。

 同時に、こころをさいなんでいた彼のいない辛さも、嘘のようにかき消えた。

 そして彼女はこころの中に、彼のそんざいを確信することができた。

 彼女はそれで、何の迷いもなく仕事を進めることが出来た。

 そして原稿が出来上がると、描いた本人が目を疑うほど、見事な作品に仕上がっていた。

「え、これ三日でやっちゃったの?すごいなあ、さすがは僕の見込んだ先生だ。あ、こんなこと云っちゃ、失礼か」

 原稿を取りに来た坂本も、その出来ばえに隠すことなく驚きをもらした。

「いえ、とんでもない、坂本さんのアドバイスがあったからこそ、ですよ」

 そのとき彼女は、クロノスのことを好き、になっていたが、坂本の前に来ると、なぜかクロノスと同じくらい、坂本のことを好き、でいられた。

おかしいなあ………ひょっとして、わたしホントは美和みたいに、移り気なおんな、なのかなあ……

「この調子でいけば、そのうち人増やさなくても、増産体勢出来そうだな。頼んますよ、われらが先生」

 と坂本は微笑んだが、その笑顔が彼女の中で、不思議とクロノスの最後に見せたあの優しい笑みにつながった。

 それで彼女はこころの中で静かに動揺したが、同時にある決意を切り出すきっかけをつかんだ。

「あの、すいません!そのことで」

「はい」

「あの、せっかくの申し出何度も、申し訳ありませんが、わたし他には描きません。わたし、天使とかのことだけずっと描いていきたいんです。それに、一杯描くと作品の質、どうしても落ちちゃいますよね。わたしこのままで行きたいんです。だから、もう、この話はこれで……」

「判りました。こちらこそ済みません。何か無理させようとしてたみたいで、先生のこころも知らずに……」

「いえいえ、こちらこそ」

 と、マリ子も笑顔を見せた。

 クロノスは、いつになるかはわからないが、帰ってくるはずだ、そして彼はいろんな課題を抱えている、だから彼女も自分に出来る何か、を探し、彼の手伝いが出来るよう、自分を高めなゃいけない、そう考えたのだ。

 そしてそれは、彼女の作品にも反映された。

 天使が切られて復活する云々、のエピソードが終わったのち、彼女は思い切って作品の展開を変えた。

 もう、以前の天使は描けない、からだ。

 彼女の作品には、元々定まった主人公はいなかったが、その流れで視点を、新たに登場させた一人の人物に移した。

 彼は天使でも、悪魔でもなく、またどっちの陣営にもついていなかった。

 彼はめっぽう強かったが、その力で何かをするでもなかった。

 そして彼はなぜか、天使と悪魔の戦いを無意味だ、と考えており、彼らを仲直りさせようと、いろんなところへ現われた。

 しかし天使も悪魔も、彼のことばに耳を貸そうとせず、小ぜりあいを起こして彼を追い返すばかりだった。

 それでも彼は、彼らの前に何度も姿を現したが、彼は自分の名を語らず、彼らが話しで彼を指すとき『あいつ』『あいつ』と云い捨てていた。

 実際、彼は自分の名前を知らなかった。

 それに、彼は飛び抜けて美しかったので、誰もが彼の顔を忘れることはなかった。

 彼は誰にでもよくしゃべった。

 そして彼のそんざいは、読者にも好意的に受け入れられ、読者アンケートの人気キャラの上位にのぼることも、しばしあった。

 それを受けてマリ子は、彼をもっと活躍させられるような展開を模索していた。

 そんな作業の最中、コンテを描いていたマリ子はふと、窓の外に目をやった。

 そして彼女は胸の十字架を左手で包んで、

「これでいいのよね……クロノス……」

 マリ子はこころの中にクロノスに語りかける代わりに、窓外の抜けるような青空に向かって、こうつぶやいた。

       クロノス・天使と戦う男 終わり