本を読む恋人たち その3 |
「西川夕美です。 先日もメール、ありがとうございます。 せっかくお誘いいただいたのに申しわけないですけど、 一緒に観に行きたい、とメールに書かれたあの映画、小説が原作ですよね? いつかメール上で申し上げた気がするのですが、私は基本的に小説やマンガが原作の映画を、ことさらに観に行こうとは思いません。 だいたいそういうものは、原作を知らない人のためにわかりやすく原作を再構成しています。言い換えれば、わかりやすくするために原作固有の世界観や、人間描写をずたずたにしてしまっています。 私はそんな、作家を冒涜するような二次生産品を観たいとは思いません。 ごくまれに、実力のある監督が原作の意図を充分に汲みつつ、自分なりに味付けした良作が出てくることがありますが、今回のあの映画は、評判を聞く限り、不勉強な出資者が潤沢な資金をバックに、中途半端な巨匠を用いて、原作のビッグネームで客をだまして金を取ってやろう、という意図しか感じられません。 あれの著者は私も少し好きでいくらか読んでいますが、あれは金をかけて撮る話ではないと思います。どうせ、かかったのは主役の破格なギャラと宣伝費くらいでしょうし。 ですから、もし映画に行くなら原作付きでない、野心的な監督のオリジナル作品にしてもらいたいのですが……いま調べたら、原作ものかCG多用のアクション物しかやっていませんね。 ということで、また別のコンテンツをみつくろっていただけませんか?出来得る限り、私も探してみますが。 注文ばかりで申しわけありません。でも、せっかく取れたおたがいの休み、有意義に過ごしたいと思うので、何卒よろしくお願いします。それでは」 竹本は一糸まとわぬ姿で、ピンク色のシーツを敷いたベッドにうつ伏している。そのかたわらに、同じく全裸の西川が小さく腰かけていた。 ともに肩で息をしていたが、三分ほど経つと二人の呼吸は元に戻った。 西川はメガネをかけなおすと、テーブルに置かれた竹本のタバコに手を伸ばし、手慣れた手付きで火をつけた。 紫煙があたりにまき散らされる。 「タバコ、吸うんだ」 彼女の背中を見ながら、物憂げに竹本は訊いた。 「こういう事の後にしか吸わないわ。だから、ひさしぶり」 にしては、彼女の一服する姿は堂に入っている。それが何だか、竹本の癇に少し触った。 どうしてこうなったんだろう、この日が来るまで彼女とこうなることを切望して止まなかったのに、事が済んでから彼はなぜか違和感を覚えていた。 彼女の例のメール以降、遊びに行く場所が当日になっても決まらず、二人は半ばけんか腰でデートをスタートさせた。二人は天神の街なかを目的もなくただぶらぶらし、丸善やジュンク堂書店では目を輝かせたが、他はどこに行こうと楽しさを見出せず、天神コアの食堂でえんえん二時間、また語り通した。 しかしそれは、これまでのようにたがいの知識を持ち合って、より高みに登るような議論にはならず、二人の見解の違いをただただ指摘するという、ほとんどけなし合いに終始した。 空気はさらに険悪になり、店を出てからも何も話さず、ひたすら街をさまよった。そして北へ上り、ベイサイドプレイスのベンチに並んで座って、陽が暮れていくのを黙ってながめた。 船上にともる、夜の明かりが目立つようになった頃、 「申しわけないです。僕なんにも考えてなくて、こんな休日になってしまって」 竹本のことばに、しばらく西川は返せなかったが、 「私も、あんな返信出してごめんなさい。竹本さんが忙しいことはわかっているのに、自分の方がもっと忙しいと思って甘えてしまったんですわ」 二人は寂しげな笑みを浮かべて相手を見た。しかしその笑顔の裏に何か隠れている事は、ともにわかっていた。 きっかけが欲しい。 それから、親富孝通りと名をあざむいた飲み屋街の一軒に入り、正体がなくなりかけるまで飲んだ。もちろんその席で本の話題は少し出たが、浅い印象批評をさらけ出すにとどまった。 ただ、二人して酔いを求めた。 そして竹本はかなり危うい足で、西川を彼女のマンションへ送り届けた。いや、彼が送ったのか、彼女が竹本を誘ったのか、二人には定かでない。 そこで彼は水を求め、流れで彼女の部屋に入ることになった。中は明るくいろどられていて女性らしいが、やはり本好きの部屋、巨大な本棚が立ち並び、竹本の趣味とは微妙にちがうラインナップの本がきれいに納められていた。 彼は出された水を含み、少し落ち着くと、何気なく書架の一冊に指をかけた。 その時、彼女の顔色が変わり、 「あ、本には勝手にさわらないでください」 竹本は目を丸くし、 「ほんとに?」 「竹本さんとは親しくしていただいてますけど、それでもここの本は私のものですから、一応私にことわってから手にしてください」 「そう?誰にでもそうなんですか?」 「はい、言わば私を形作っているもの全部がそこに詰まってますから、親でも自由に見せたくないんです」 彼は背表紙の表題を確かめるように、頭をめぐらす。そして、 「僕の親兄弟は本を読まないたちなので構わなかったですけど、やはりそういうことが気になるものですか」 「………ていうか、自分の中身を見られるような心地で、ちょっと不愉快に思います」 「じゃあ、ことわりなしに西川さんの本が読めるのは、本人以外に誰がいます?」 「え?……」 二人は向かい合って固まり、たがいを見つめた。重い空気が、その間にたれこめる。 「僕では、いけませんか……」 彼女は少しとまどいを見せ、 「私がいいと思う人なら、確かに構いませんけど、それがあなたとは、まだ……」 「では、そうなりましょう」 「え?」 竹本は西川にゆっくりと近付き、肩を抱いた。硬くはなっているが、抵抗はない。 後は流れで唇を重ね、彼女のベッドにもつれ込む。 しかしその時、彼の頭の片すみで冷めた声が響いた。 『押し倒すのも、本がらみかよ。出会った場所が場所とはいえ』 その日以来、西川の竹本に対する態度ががらりと変わった。 理屈っぽいのは相変わらずだったが、彼女はその理屈を、何ごとにおいても自分が正しいと言い張るために使った。 竹本が西川のトイレを借りれば、 「便座が上がっているのは、あなたの注意力のなさと、私に対するいたわりのなさ、つまり関心のなさから来ているのよ。私は女だから、便座が下に降りていないとスムースに用が足せないことくらい、あなただって考えればわかることなのに」 それから料理に呼ばれれば、 「私が作った料理を全部食べないのは、私がどれだけその料理を作るのに腐心したか、あなたが思い知っていないからよ。いっぺん、人にために料理を作ってみるといいわ。残されるのがどれだけ腹立たしいか。それに料理がまずかったとしたら、どこがまずいのかもはっきり言って欲しいの。ただごちそうさま、ってだけ返されて、無感動な顔で食卓を立たれるとやる気をなくしてしまうわ。何がいけないのかはっきりすれば、今後の改善もすみやかに出来るから、そういう意味で少しは協力してくれないかしら?」 そして彼女を部屋に招いた際も、 「最初のデートの時もそうだったけど、あなたは段取りが悪すぎるのよ。私が来てからお茶の葉っぱを切らしてたこと思い出したり、部屋に入ったところで急にゴミを拾い始めたり。男の人が家のことに無頓着なのは承知してるけど、私が来るのがあらかじめわかっているなら、そのあたりは事前に処理しておくべきよ。女は普通、男のそういう不器用なところを見て保護欲をかき立てられ、何かと世話を焼くみたいだけど、結局それは問題の先送り、のちのちの離婚の原因にしかならないわ。あなたには、そんなつまらない女を求める、つまらない男になって欲しくないの」 その時は、いつ、誰がお前と結婚するって言った?と竹本は突っ込みたくなったが、ともかくそんな感じで彼女は彼に、事あるごとに難癖をつけた。しかしそれらの小言はいちいち筋が通っていて、彼には文句の返しようがなかった。 それでもベッドの上では、西川はまだ従順だった。女性経験の少ない竹本が想像の中で試みた、さまざまな行為を求めても、彼女はあらがうことなくそれに応えた。理屈をこねる対価として、夜の営みでもって帳尻合わせをしているかのように。 そしてそのさまが、あるときは不器用で、またあるときは巧みすぎて、彼は彼女の経験値をはっきり読み取ることが出来なかった。 一つはっきりしているのは、彼が彼女と逢う時間を作るために、他のことに当てる余裕が大幅になくなった、ということだ。 それでもまだ竹本は、西川の事をいとおしく思っていた。 そう思っている、自分自身のことも。 しばらくの間、竹本は彼女の難癖を適当に受け流し、波風を立てるまねを控えていた。しかし彼の中にだんだんとわだかまりがつのってきて、一ヶ月ほどもすると、それがいつ暴発するか自分でもわからなくなっていた。 自身の理屈に酔っている彼女は、当然そのことに気付きもない。 そんな中、二人の関係を乱す決定的な事件が、起ころうとしていた。 ある日、竹本の部屋へ来た西川は、一冊の本を彼に手渡した。 「何の本?」 「ハーブの本よ。あなたに読んでもらおうと思って」 「ハーブ?……ああ、西洋のファンタジーに出てくる、魔法の材料になる薬草のことか」 「確かに、いまも魔女を自称している人はそういう説明をするみたいだけど、本当は薬の成 分も含んでいる野菜のことよ。ミントは知っているでしょう?」 「ああ、歯磨き粉とか、ガムに入ってるメントールね。学名はどんなだったっけ?」 「それもその本に書いてあるわ。他にもいろいろ種類があって、西洋料理には欠かせないらしいわよ、バジルとか、オレガノとか、いま流行りのウコンとか。実際に薬として使う場合もあるし」 「で、何で僕にこの本を?」 西川はいとしげな目で竹本を見て、 「私、部屋のベランダでハーブを育てているの」 「へえ。それって難しくない?マンションで繊細な生き物そだてるのは」 「簡単よ。ハーブの語源は『雑草』っていうくらいだから。それで結構育っちゃうから、まめに収穫しないとベランダが葉っぱの山になっちゃうのよ。どんどん使ってあげた方が、剪定になってハーブのためにもいいし、私たちの体にもいいし一挙両得。だから、あなたにもおすそ分け、ってことで」 「じゃあ、何で今まで持ってこなかったのさ」 「ハーブにはくせや好みがあるから、しばらく様子を見てたのよ。あなたは大丈夫そうね」 竹本はまだ納得した顔を見せず、 「それと、この本とどういう関係が?」 「それは育て方じゃなくて、主に使い方の本。私がここで料理するため置いとくつもりだったけど、せっかくだからあなたにも読ませて、自分で料理する時に使ってもらえればいいかな、と思ったの。そうしたら、あなたの知識の幅も広がるでしょ?」 「確かにそうだけど……」 竹本はぱらぱらと、その本を流し見して、 「でも僕はこんな、凝った料理なんか出来ないよ。コンビニ弁当に毛が生えたくらいのものしか」 「それでいいのよ。特別に何か作ろうとする必要はないの。普通にスパイスとして使っても、ぜんぜん味が違ってくるから。まずは、その本で勉強してみて。たいていのことは書いてあるから、あなたほどの人ならすぐわかるはずよ」 最後のことばで気をよくした竹本は、その本をメインデスク上のブックエンドにしまった。そのブックエンドには、彼がいま読んでいる最中か、資料として頻繁に開く必要のある本だけをはさんでいた。それを知っている西川も、自尊心をくすぐられて上機嫌になる。 「とりあえず今度、ハーブティーに出来るものを持ってくるわね。カモミールとか、ミントとか。普通のお茶のように、熱いお湯をかけるだけでいいから。料理にも使えるわよ」 そうしてひとしきり会話を交わしたあと、彼らはいつもの流れで一夜を過ごした。 それから数日経ったある朝、竹本は起きるとその日が資源ごみ、つまり空き缶やビン、新聞紙などの回収日であることを思い出した。 西川が来るようになったとはいえ、一人暮らしだとなかなか資源ごみはたまらない。だから毎回のように捨てはしないが、その日のうちに部屋に転がる資源ごみを、袋にまとめるよう彼は習慣付けていた。 缶やビンのビール、缶ジュースを彼はほとんど飲まないので、集まるのは栄養剤やドリンクのビンだけだった。仕事で疲れたときの必需品だが、小さいので袋にはちまちまとしかたまらず、拾い上げる手間でイライラばかりがたまる。 ひととおり作業を終え、彼はつづいて朝食の準備をはじめた。これも日課どおりだ。 竹本はこのとき、ハーブが料理に使える、という西川の話を思い出した。そこで、いま焼いている目玉焼きに使えやしないかとテーブルの上を探したが、それらしきものは何もない。数日前に、採れたものを持ってきた、と西川が薬ビンに入れてテーブルに置いたはずだが、どこに行ったのだろう。さらに台所を見渡す。 しかしそこで目玉焼きが焦げだし、その臭いでガスレンジに注意を向けた途端、ハーブのことは彼の頭から飛んでしまっていた。 そしてとどこおりなく朝食をすませ、竹本はいつものように出勤した。 「あなた、私が持ってきたカモミール、どこへやったの?」 竹本のアパートに来た西川は、部屋に入ってほどなくそう告げた。 「え?そんなのあったかな?」 「持ってきたじゃない。料理に使うものは時期尚早だ、ってハーブティーになるものを。一つはカモミール。もう一つはミント」 彼はあわててあたりを見回し、居間にはみだした食器だなに、乾燥した葉っぱの入ったビンがあるのを見た。 「あ、これだったかな」 と笑顔で食器だなを開け、ビンを取り出す。 「それはいいの。ミントがそこにあるのはわかってるから。問題は、同じ形のビンに入れたはずの、カモミールが見当たらないことよ」 「カモミール、ってどんなんだっけ。ミントと同じ、葉っぱだったかな」 それまでせわしく捜していた西川は、動きを止めて竹本をにらみ、 「あなた、私が貸したハーブの本、読んでいないでしょ?」 彼はひと呼吸置いて、申しわけなさそうな顔をし、 「はい、確かに読んでません……」 「そう思った。忙しいんだから仕方ないけど、せめて、持ってきたハーブの形と名前くらい一致させて欲しかったわ。それ読むヒマくらい、あったでしょう?」 竹本は下を向いてしばらく黙ったのち、西川の顔をきっ、とにらみ返して、 「しょうがないだろう!僕だって、IT関連に勤めてるからって、そんなにいい思いしてるわけじゃないよ!納期前は修羅場になるって説明、しただろう!……確かに今は納期前じゃないけど……それでもやっぱり、どうしても月に何回か、忙しい時があるんだ!君のことばかり構っていられないよ!」 対して西川は、 「何であなたはいつもそうなの!?自分が都合が悪くなると大声で怒鳴って、うやむやにしてしまおうとするじゃない!はっきり言って、そんなことしたって何の問題の解決にもならないわ!」 二人は黙り、たがいの顔をにらみつける。しかし、ほどなくして西川は、顔をわずかにゆるめた。 「じゃあ、今度からハーブのことを勉強してもらうことにして、とりあえずカモミールの入ったビンがどこにあるのか、すぐ探しましょう」 竹本は、なぜ今すぐ?と問いただしたかったが、彼女が矛を収めたので、彼も平静を装った仮面をかぶり、二人して台所中を引っくり返した。 しかし、出てこない。 「おかしいな、この、ミントと同じ形の薬ビンでしょ?間違うはずないのになあ」 「ミントがたなにしまってあるから、カモミールだって、わかるところに置いてあるはずなのに。……一応言っておくけど、カモミールは葉っぱじゃなくて、菊と同じ形をした花よ。乾燥させてるから、茶色く変色して縮んでいるけど、匂いが甘いからすぐわかるわ」 初耳だったが、荒ぶる西川の手前、竹本はそれを口に出さない。 そして、調味料を入れたたなの中身まで掘り起こしたのち、 「これだけ探してないんじゃ、もう仕方ないよ」 「しかたないって何よ。薬ビンが排水溝や、畳のすきまに入り込んだりするとでも言うの?それとも、ビンが勝手に部屋から出て行くの?考えたくないけど、仮に捨てたとして、どこにあるの?ゴミの回収日に出してたら、もう持って行かれてるわよ」 「あ」 その時、竹本の額から背中からわきから、とにかく汗腺のある皮膚から滝のような汗が流れ出た。それを見た西川はすぐ何かに気付いて、彼の部屋の暗部である、台所の西にある小さな物置をひらいた。 その物置に、出すほどたまっていないゴミをまとめて置いていると、彼女は彼から聞いていた。 そこには確かに、中途半端な量が入った資源ごみが袋に入れられていた。遠慮などせず、彼女は袋をあさる。 そして十二秒後、袋に手を突っ込んだまま彼女の動きは止まった。何ごとか察して、竹本の動きも止まる。 「これ、何?」 ゆっくり振り向いた西川の顔は、さながら鬼だった。その手には、まさしくミントを入れたのと同じビンがおさまっている。そしてビンに貼ってあるラベルのすきまから、ひからびた植物組織がうかがえた。 言い逃れは出来ない、と悟りつつも、彼は必死に言い訳を考えた。額に、玉の汗が浮く。 「たぶん、他の薬のビンと間違って入れたんだよ。同じような空きビンもいくらかあるし」 「このラベルは他のと違うわ。なのに自分のゴミと間違えて、捨てたんでしょう」 声は冷静だが、恐ろしげに響いた。竹本はまた猫なで声で、 「たぶんラベルに隠れて、中身が見えなかったんだよ。そのラベル、他のビンのより大きいし」 西川は向き直ると、ビンをおさめた右手をぶらんと下ろし、また上目づかいに彼をにらんだ。しかし、怒鳴ったのは竹本だった。 「君がまぎらわしいものに入れてるからいけないんじゃないか!そんなに大事なら、そのビンにでかでかと名前ふっとけよ!俺はそこまで面倒見きれないぞ!」 「また怒鳴る!あなたの不注意からこんなことになったのに、全然反省しないじゃないの!本に書いてあったと思うけど、私がこいつをここまで育てるのに、どれだけ大変だったか分からないの!」 竹本は、ビンの中身に目をやる。どう見ても彼には、枯れた花のつぼみにしか見えない。 「分からないさ、きみが説明してくれなきゃ。僕は聖徳太子じゃないんだ、一を聞いて十を知る、なんて芸当できるかよ!」 「そのことわざの用法、間違ってるわよ。ことばは正確に使わないと」 ここで竹本は口を閉じ、冷静な顔になる。問題を解決するため心を抑えたのでなく、ある種のあきらめを覚えたのだ。 「結局、きみは本からしか何も得ていないんだね」 「え?……どういうこと?」 彼女の顔も素に戻る。 「君の注意は、何かの本から引用しているのが多いような気がする。やれ、ここはこういう風になると書いてあった、やれ、ここはあの本ではこうなっていた、とか」 「私がいつ、そんなこと言った?」 「今、言ったじゃないか!本に書いてあった、って!」 西川は表情を再びかたくし、 「言ってないわよ!少なくとも、いま以外は!そんな私の言葉尻をとらえて、何でもかんでも一緒くたにして、攻撃の材料にするのは止めてよ!」 痛いところを突かれ、竹本は目を剥いたまま黙る。西川はなかば勝ち誇ったように、 「それに、私が貸した本に目を通してさえいれば、こんなケンカせずに済んでたこと、いっぱいあったでしょ言わせてもらえれば!今までずいぶん私、あなたに本を貸してあげたでしょ!そんなのを読めばわかること、いっぱいあったのに!あなたに気を使って、今まで言ってこなかったけど!」 竹本は二の句が告げず、机の上に目をやる。確かに、彼女が貸したさまさまな本がそこにおさまっていた。 「時間がなかったんだ」 竹本は冷静さを再び取り戻し、その場に座り込む。その目は、まだ彼女の本の背表紙にすえられていた。 「僕も仕事が忙しくて、君の本を読もうと思うまで至らなかったんだ。ブログもそう。でも、それは僕だって同じだ。ここ一ヶ月、自分の本さえ満足に読めなかった」 「私のせいにするの!自分の怠慢を」 「聞いてくれ……確かにそうかも知れない。君と一緒に楽しく過ごそうと努力するあまり、本に手が伸びなかったのは事実だ。でも、それは仕方がないだろう?僕だって本を読むために生きているんじゃなくて、普通に生活するために生きている、普通はそうだろ?そしてその、普通の生活をとどこおりなく進めるため、僕たちは本を読むんじゃないか。というか、そうあるのが普通だろう?」 ここで西川も座り込み、目線を彼に合わせた。その中には、もう怒気は含まれていない。というより、何かが抜けてしまったようだ。 「でも君は僕に、君の本に書いてある通りに動くよう、望んでいる気がする。本に合わせて生活するなんて、できるわけないよ普通。君は結局、」 竹本はことばを切り、喉をうるおすためにつばを飲み込む。西川は不安そうに、彼の顔をのぞきこんだ。 「結局君は、僕という人間自体が好きなんじゃなくて、本を読むという性質を持っている僕を好きになっただけじゃないのか?普通は彼氏にそんな要求、するものじゃないよ」 「だけど、」彼女の顔が急に締まる、「男の人の外面的な要素だけで判断するより、そっちの方がかしこくはないかしら?茶髪イケメンなんて、頭スカスカもいいところじゃない。それで私はあなたになら、って思ったのに、それじゃダメなの?」 「…………ダメ、かな。確かに僕も、本を読む君が好きになった。でも本当の意味で好きになるには、そういうところしか見ない、というわけにはいかないだろ」 沈黙が流れる。 しばらくして、うつろな目で彼女は告げた。 「もうダメかもしれないね、私たち」 それからしばらく経っても、二人の関係はまだ続いた。 しかしそれは、以前のようにたがいの「好き」という想いをぶつけ合うのではなく、二人とも断ち切りがたい未練に、その総身をゆだねているだけのようだった。 だから、夜は激しかった。 けれど、というか当然、その情事によって二人が充足を得ることはなかった。 「ねえ、わたしたち、何でこんなことしているの?」 息も絶え絶えに西川が訊くと、 「さあ、快楽ってのはつまるところ、脳が自分で出す麻薬物質に、自分でラリってるだけだからな。だいたい愛だの恋だの、生物学的にはそんなに深いものじゃない」 「じゃあ、人は何のために、他人と体を重ねるのかしら」 「その、愛ってやつだろ」 結局、二人は別れを決めた。 一ヵ月後の水曜日、午後五時半、竹本の姿は市立図書館にあった。 二人は別れてから、一度として合っていない。連絡も取らなかった。同じ街にいるのだから、どこかですれ違ったりはしているのだろうが、本人たちはそれに気付いていなかった。 そしてこの図書館でも、鉢合わせになることはなかった。別に意識して、行く時間をずらしているのではない。普通に会社帰りに寄って、借りていた本を返し、借りたい本の登録を済ませ、持って帰る、それだけだ。他には何も起こらない。 はずだったがこの日、竹本が貸し出しカウンター前の行列に並んでいた時だ。 前に並んでいた人が持っていた本の一冊を落としてしまい、彼が反射的にしゃがんで拾ったら、上からどこかで聞いたような声が聞こえてきた。 「すみません」 顔を上げると、西川だった。 竹本は彼女の目を見すえたまま腰を上げ、拾った本を手渡した。 「どうぞ」 「どうも」 それきり彼女は前を向いて、ひたすら最前列に目の焦点を合わせた。 竹本も特別には声をかけず、ただカウンター内で立ち働く、アルバイトの若い女を目で追った。 そのとき彼は、彼女たちは慣れない接客で大変だろうな、と思い込もうとした。 それは、彼がここでいつも目にする光景だ。 そして、これからもこんなだろう、と、何気なく考えた。 〈了〉 |
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