「あほ」「ばか」を『差別用語』と言う「タワケ」

 大分前、筆者が
「馬鹿でもわかるように・・・」とか「阿呆でも出来る・・・」とか言ったことを捉えて、「『差別用語』を用いるとはけしからん」と言ったド阿呆がいた。話の本題に対する批判ではなく「片言隻句」を捉えての不意打ちのため、最初はなにを言っているのかわからなかったが、相手の悪意がわかるにつれムラムラとした怒りが湧いてきた。確かに筆者も、阿呆だの馬鹿だのといった言葉は上品な言葉だとは思わないが、とりわけて下品とも思わない。ましてや『差別用語』等とはつゆほどにも思わない。「踊る阿呆にみる阿呆、同じアホならおどらにゃ損損」の阿波踊りの囃子詞はいったい何なんだ。演歌「浪速恋しぐれ」の「どうせわいはアホや、酒もあおるし女も泣かす・・・」の名台詞も差別なのか。「男ドアホウ甲子園」とか「空手馬鹿一代」とか言った漫画もあった。歌謡曲や小説、映画、演劇には、「馬鹿」や「阿呆」のオン・パレードである。もし「馬鹿や阿呆」が差別用語であれば何処からかクレームが付いてもよいはずであるが寡聞にしてそのような話は聞いたことがない。それに、もし、この世の中に馬鹿や阿呆といった言葉が存在しなかったら、一体どのようにして、愚かな為政者や、藪医者や、破廉恥教師を非難すればいいのか。不正や誤りを指摘して非難を浴びせ、圧制者や弾圧者、そして差別者を罵ることは、全く正当且つ正義にかなった行為であると筆者は確信している。

 そもそも差別とは何なのか。これについては、以下のような種々の定義がある。

「個人に帰することができない根拠に基づいた有害な区別」、「皮膚の色、人種、性など、社会的・政治的ないし法的な関係において正当化できない結果をもたらすような根拠、あるいは、文化的、言語上、宗教的、政治的意見その他の意見、民族系列、社会的出身、社会階級、財産、出生または他の地位などの様々な社会的カテゴリーに所属しているという根拠に基づいた有害な区別」(国連人権委員会)

「個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、普遍的な価値・規範(基本的人権)に反するしかたで、もしくは合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、異なった(不利益な)取り扱いをすること」(野口道彦)

「本人の選択や責任とは関りのないような個人の能力、業績ないし個人の行動と無関係に作られた自然的・社会的区分に属していることを理由にされて、集団ないし個人が不利益を被るか人権を侵されるか、不愉快な思いをさせられる行為」(鈴木、坂本)

 ウエブスターの辞書には簡潔に
make difference とある。アホ、馬鹿は対象を非難攻撃する言葉であり、なんと、時には対象の純粋さや直向きさを賞賛する言葉であって、決して差別を意味するものではない。もちろん、他の通常の言葉と同様に差別の意図をもって使用することも可能ではある。例えば、知的障害者に向かって言うような場合が考えられるが、そのような発言をする者こそ「アホ、馬鹿」とののしられて当然の人間であろう。差別かどうかは、特定の単語を使用するかどうかではなく、表現全体が意味する内容の総体で判断すべきものであるのは当然である。筆者の考えによれば、差別をする人間は自分が安全地帯にいることに確信を持った上で、ある一定の区分に属する人々を安心して差別するのである。それに比して、「アホ、馬鹿」は、いつ何時反対に非難の言葉を浴びせられるかわからない、いわば対等の土俵の上に立っての言葉である。自分のデタラメな行いや怠惰によって人に迷惑をかけた者や、失言ばかり繰り返してはお詫びを連発する人間を「阿呆」といってなにが悪いのか。覚醒剤犯や不良少年を「馬鹿」と言ってなにがいけないのか。そして「アホ馬鹿」が差別用語だという者に対してこそ「このド阿呆」と言ってやりたくなる。
 さて、そもそもこの『差別用語』という言葉であるが、これこそ実に悪質な『用語』であると筆者は思っている。この言葉は、○○党の人たちが、日本の伝統的差別意識を煽動するため、「××が『言葉狩り』をしています」と言って運動団体を攻撃する文脈において使った『用語』である。上述のように、差別かどうかは、特定の単語を使用するかどうかではなく、表現全体が意味する内容の総体で判断すべきものである。また、
差別された者は『差別』に対して抗議をするのであって、『差別用語』に対して文句を言うわけではない。どこの世界の被差別者が「特定の言葉さえ使わなければ、自分たちを差別してもいい」等というのか。
 このことと関連があるかどうかは知らないが、筆者の経験では、自分の責に帰すべき理由によって生じた結果、例えば
裕福で恵まれた家庭に育ったにもかかわらず、怠け者であったため成績が悪い、に対して「馬鹿」とか言われると「差別用語」を使ったと言って騒ぎ、三流学校にしか入れなかったことを指摘されると、「学歴差別」だとかという連中に限って、種々の伝統的差別がお好きなようである。
 筆者は、これからも「阿呆」「馬鹿」を重要なまた素晴らしい日本語としてどしどし使っていくつもりである。



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