凶悪犯にこそ−−左翼はなぜ経済犯より殺人犯に同情的なのか
背任などの経済事件や選挙違反や汚職などの政治腐敗事件におけるマスコミの報道は、いつも容疑者を完全に犯人扱いし、彼等の反論はすべて「白切り」「強弁」「逃げ口上」「責任逃れ」だと決めつける。ところが、どういう訳か、人殺しや、盗人、強姦事件などの容疑者に対しては妙に同情的で、判決が確定するまでは犯人かどうか断定できない、したがって容疑者の人権を徹底的に守る必要があるとの立場をきわめて鮮明にする。この様な傾向は、少年犯罪や「心神喪失・心神耗弱」者の犯罪になれば一層顕著となる。そして、読者や視聴者の側もそれで納得して何ら不思議に思わないのである。何故か。おかしいのではないか。そもそも、汚職、脱税、選挙違反などの犯罪は個々具体的な被害者がいない。したがって、被害感情も実際的には存在しないのである。ところが、詐欺や交通事故では特定の被害者が存在している。ましてや、殺人、強盗、傷害、暴行、誘拐、強姦などの凶悪犯には強い被害感情を持つ具体的な被害者が存在しているのである。どうしてマスコミは汚職や脱税などの被疑者の方にばかり冷たいのであろうか。
確かに「それらの犯罪の被害者は国民全体なのだ」といえないこともないし、実際に痛みを感じなくても、これを放置して蔓延すれば、社会が自壊し国家が衰退する国家にとっての「糖尿病」のような全身病であるともいえる。しかしそうであるなら、殺人、強盗、強姦などの凶悪犯は急性疾患や外傷である。これを放置したり軽んじたりすれば、法秩序は急速に破壊されてしまい社会は荒廃せざるをえない。人々の社会に対する信頼が喪失し、相互不信が充満した世の中に進歩発展など望むべくもない。
政治腐敗事件や、経済事件の際に声高に「正義」をふりかざす人の正義感とは実は嫉妬心の裏返しではないのか。大衆の劣情の煽動と組織化にかけて○○党の右に出るものはないが、「あの野郎うまくやりやがって」という妬みの感情を左翼文化人やマスコミは刺激して止まない。ところが、大衆は殺人事件の被害者に対しては同情心は湧くものの、所詮「他人の痛みは百年でも我慢できる」という具合ですぐに忘れてしまう。あたりまえだが嫉妬心などはないので「正義感」なるものも大して生じない。左翼の連中が「加害者にも人権があります」というと「それもそうだ」となってしまう。
今こそ、下劣な嫉妬心からではない正義感を社会に取り戻し、政治腐敗などの国家社会の慢性疾患のみならず凶悪少年犯罪などの急性疾患に対しても対策を講じなければならないのである。
参考文献
『好き嫌いで決めろ』河上和雄 講談社文庫
『特捜検察 上 下 』−巨悪・地下水脈との戦い 山本祐司 講談社+α文庫