地方分権 噴飯ものの地方分権

はじめに
 地方分権を推進する人たちは、従来の中央集権制が画一性、統一性、公平性を重視してきたのに対し、地域社会の多様な個性を尊重する「住民主導の個性的で総合的な行政システム」に変革するのだと主張する。中央集権制は「無駄」と「官僚への過度な権力集中」を必然的にともなう。そこで、熱力学の第二法則ではないが、物事の本来の姿である「分散」状態すなわちエントロピーが増大した状態に戻そうではないかと言うのである。
 そのために、地方自治体は必要な権限や財源を確保して、地域の実情に応じた、きめ細かく、機動的に行政サービスを展開するという。さらに、地方分権の推進によって地域住民の自己決定権の拡充とあらゆる階層の共同参画による民主主義の実現をはかることができるだという。果たしてそれは本当か。

地方は「超・村社会」
 さて、日本の伝統的な社会の特徴を一言で言い表すと
「村社会」ということになる。村社会とは、不透明・内向型社会、異質排撃型社会、相互監視密告型社会、劣情組織化社会、固定的利益連鎖至上主義社会、身分的上下関係墨守社会であり、さらに、論理否定型社会、技術革新拒否型社会、学習否定型社会であって、一口で言えば陋習:「クローニズム(Cronyism:政権の取り巻きの重視)」・「ネポティズム(Nepotism:縁故主義)」万能の退嬰的社会である。
 特に日本の選挙区で一番多い型である中山間地区は、村社会の中の村社会である。そこには大中小の「領主様」がいて、
地縁・血縁・コネ・情実によって繋がる子分がいる。領主様は子分達に公共事業という餌をばらまき手なずけて行く。排他主義に基づく「井の中の蛙」的仲間意識が存在し、異質をつねに排除しようとする。もちろん領主様に、逆らったら村八分に遇う。そして、地方に行けば行くほどこの傾向は強まる。

地方行政=「土建行政」
 公共事業と選挙の関連は、だれでも知っていることである。地方に行けば行くほど、住民の大きな収入源を土建屋が握っている。そして、議員も土建屋も行政もどっぷりと利権の連鎖に浸っている。収入の方途と票が交換されるから、地方選出の議員にとって土建屋はとてつもなく大きな選挙基盤なのである。

ごろつき支配の地方行政
 票と公共事業費の交換が常態化しているため、地方においては土建行政が行政のほとんど全てを占める。土建行政からあふれ出る蜜に群がるのが議員と土建屋であり、蜜の分配を取り仕切りそのおこぼれに預かるのが吏員(地方公務員)である。
吏員の仕事のほとんどは、予算のぶんどり交渉と利権配分の「根回し」及び「議会対策」ということになる。これらの仕事をこなすのに必要なのは「丸め込み」「騙し・すかし」「居直りと強弁」等のゴロツキのような「能力」であり、一切の知性や教養を要しない。結果、ゴロツキによるゴロツキのための行政が展開されることになる。

吏員は「低学歴」
 中央省庁のエリート官僚、即ちキャリア組は東京大学出身者を中心とする高学歴者によって占められている。これと対照的に、
吏員は地方国立大学出身者が精一杯の高学歴者という低学歴万能の世界である。要するに、国の行政には専門的知識と高度の知性が要求されることもあるが、今の地方行政には高卒や駅弁大学卒程度の知識や能力で十分にごまかし得る仕事しかないということである。よく言えば仕事と職員の能力が釣り合っているのである。

土建屋さん

こんな「受け皿」で大丈夫なのか
 議員、土建屋、吏員が土建行政に群がり、どっぷりと利権の連鎖に浸り込むことが常態化した所に、地方分権で、さらに大きな利権が転がり込む。地域住民の自己決定権の拡充どころか、地方に割拠する御領主様と、
利に聡く、義に疎く、さらに頭の回転まで遅い、自慢といえば世渡りだけの吏員によって彼等の頭脳の処理能力を超えるような大きな予算が、不合理かつ不公平にボス達だけに分配されてしまう。
 あらゆる階層の共同参画など絶対にあり得ず、住民は村八分になるのを恐れて御領主様とその走狗である木っ端以下の
「おがくず役人」にひれ伏す。ありとあらゆる「無駄」が生じ、「官僚ならぬ吏員への過度な権力集中」が社会的弊害を大量発生させる。

汚職と腐敗が全国津々浦々に
 地方分権などしたことなら、悪代官と悪徳商人、さらにはヤクザがつるんでやりたい放題という、まるで水戸黄門のような世界が現実に展開されることになる。汚職と腐敗が全国津々浦々に分散するので、東京、大阪、名古屋だけにあった「特捜部」がそれ以外の道府県検察庁にも必要になってしまう。
 悪代官どもに膏血を搾られないうちに、我々は、今こそ絵に描いた餅のような地方分権に反対しなければならないのである。



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