愚民視から愚民化へ
「ヨラシムベシ、知ラシムベカラズ」を金科玉条とした官僚国家においては、支配者の情報独占と大衆に対する情報操作が統治の基本である。○○主義国では外部情報の流入を遮断するのは当然、指導者と呼ばれる貴族階級である党員様に対する批判などしようものなら収容所で奴隷労働させられるか精神病院に監禁されてしまう。形ばかりの選挙はあっても、ある候補が他の候補に対して批判する行為は他の候補者の言論の自由を侵す事だとされ厳禁である。大衆は単一政党の候補者、それも定員と同数の候補者に対して、その候補者の言うことのみを判断材料に投票しなければならない訳である。これで言論の自由が確保されていると豪語するのが○○党の主張である。
さて、官僚支配の国家は何も、○○主義国家だけではない。わが国だって結局のところ同じである。ただ現在の国民は明治以来の教育制度のおかげで、どっかの○○主義国家の国民とは違って判断力はそれなりにある。また、選挙だって複数の政党が存在するし、他の候補者に対する批判が出来ることこそ言論の自由だという考えなので、国民は様々な意見と情報をもとに判断することが可能である。
しかし、その判断力の基本である教育が急速に崩壊しつつあると筆者には思えるのである。人類の歴史を振り返るとき、理性による合理的判断を行動原理としたのはごくごく最近の事にすぎない。合理的思考よりも、まじない、占い、神懸かりやお祈りなどの宗教的思考の方が圧倒的に優勢であったし、宗教と結びついた倫理観だって現代合理主義から考えれば首をひねるようなものばかりである。このような人間の歴史を見るとき、合理主義精神は少しの油断で、いつ何時劣勢に立たされるかも知れない脆弱なものであると筆者は思う。自由民主主義社会を維持・発展させるためには合理的思考力・判断力を持った人民の存在が前提である。さらに、合理的思考力や判断力は意図的に鍛えなければ発達しないし、それは論理的な思考訓練によって成し遂げられるのである。いわゆる発展途上国に自由民主主義が育たず独裁者が頻出するのも人民の教育レベルが低いからに他ならない。さらに、教育レベルの高い国ほど経済的にも発展してきたことは議論するまでもなく明白な歴史的事実である。明治以来わが国の唯一の資源とも言うべき人材育成のため教育の充実が図られてきた。しかし一方、官僚支配を貫徹するために人民にへたに正しい判断をされては困るのである。そこで、情報を恣意的にコントロールすることによって、人民を判断力はあっても判断材料が無い状態に置くという方法を採ったのである。そして、支配者や官僚たちは人民を愚民視していたのである。
大戦後も基本的には上記のような支配原理がつづいてきた。しかし、技術の発展やアメリカ式民主主義の普及により情報の流通に対する権力的コントロールは難しくなってきた。そこで、官僚支配国家の金科玉条「ヨラシムベシ、知ラシムベカラズ」を実現するためには、情報=判断材料を奪うことが出来ない以上、判断力を奪うしか手が無くなってきたのである。則ち合理的思考力を鍛えることをやめればよいということである。そこで登場した切り札が「ゆとり教育」という名の愚民化政策である。「ゆとり教育」の最大の目玉が論理的思考そのものである数学・算数教育の壊滅であることがなによりの証拠である。しかし教育の破壊は科学技術力・工業力を低下させることは必至であり、人材以外に資源のないわが国の前途はまさしく暗澹たる地獄になるであろうと推測される。