今の世間はコネ社会 「この世間、なにはなくても裏はある」

 今、大学生の学力の低下が嘆かれている。特に数学の学力低下が著しいらしい。筆者には、何で今頃になって騒ぐのかはなはだ疑問である。そんなことは相当以前から予想されたことではなかったのか。
「進歩的文化人」とか言う意味不明な肩書きを持ったお偉い方々が口々に、やれ、「学校が荒れるのは受験戦争のためだ」、とか「学力よりも人格が大事だ」とか、「総合的学力よりも個性が重要だ」とか宣(のたま)い、試験問題は易しくしましょう、一科目でも優秀な成績なら入学させましょう、数学の試験はやめましょう、やっぱり入試は面接ですね、ということになってしまった。これでは、学力が低下するのは当たり前。
 さて、この中でも
面接がくせ者だと筆者は思うのである。面接では「人格」とやらが大事らしい。しかしである、人格とはいったい何なのか。性格とも違うらしいー筆者の想像では、おそらく性格は人格の一部であるらしいのだがー。試されるべき人格の内容が明らかに説明されたことはない。第一、ある一個の人間の複雑きわまりない精神活動のうちの一体どの部分を指すのかも明らかでないような「人格」を高々数分間の面接でどのようにして測定するのであろうか。さらに、そのような「偉大な能力」を持った面接者を一体どのような基準で選ぶのであろうか。全く疑問だらけとしか言いようがない。勢い、面接者の好みや、思想的傾向、恣意、気分などによって左右されるような、いい加減きわまりない判定がなされる虞が大いに存在する。元来がそのようないい加減なものだから、「縁故」「コネ」「伝手(つて)」「地縁・血縁」等々で判定したところで不正の証拠などどこにも残りはしない。時々、市町村の職員採用を巡って運悪く「不正」が発覚して逮捕される首長さんが報道されている。あれは「カネ」が絡んだ場合で、しかもその受け渡しが採用の前後であり、更に内部告発等によってそれが発覚した、実にレアなケースである。「カネ」に較べて「コネ」はこのような心配は全くない。私企業や他の公務員でもおそらく事情は同じであろう。以前、私立の医科大学での「裏口入学」が大いにマスコミを賑わせたことがあった。最近は、とんとそのような話は聞かない。なぜだろうか。おそらく、以前は学科試験のみか、あるいは、学科試験の結果がでた後で2次試験として面接を行っていたものが、最近では初めから面接を組み入れた試験を行うようになったからであろう。今では国立大学でも面接試験を取り入れるようになっている「コネ」のない人間はよほど学科の試験でがんばっていないと危なくなってきた。しかし、さすがは天下の東大である。東大では「学科試験」のみによって公平に入学者の選抜が行われている。本当に尊敬に値する立派なことだと思う。今後ともせめて東大だけは不明瞭・不透明な面接試験を取り入れることがないよう筆者は願うものである。
 そもそも、面接をして人柄のいい人を入学させましょうという人々の論理的根拠はどこにあるのかと問いたい。大学は言うまでもなく学問の府である。人格の府ではない。歴史に名を残す大学者の中には「変人」と呼ばれる人も多く存在するのである。あたら秀でた才能を持つ者を「人格が駄目だから」とかいう理由で学問の機会から遠ざけることが正義に反することは明らかであろう。また、面接を推進している連中は、一般大衆に対して、いかにも「勉強がよくできる者には、人格が低劣なものが多いのだ」といっているかの印象を巧みに与えることによって大衆の支持を取り付けながら、しかも、「成績がよい者が人格低劣であるなどとは言っていません」と言い逃れるのである。
 筆者は、面接試験を推進し、「人格者」の入学や採用をいかにも正義のごとく言っている人々の多くが、現世的なエスタブリッシュメントであり、鼻持ちならないエリート意識の悪臭を周囲に振りまいている醜悪な俗物であることに注意を促したい。



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