「裁きの神」と逆偏見 |
先日、東京高裁の判事が少女買収で捕まり弾劾されそうになっている。曰く「裁判官の威信を傷つけた」とのことである。筆者に言わせれば裁判官の威信などとっくに傷ついていると思う。最近では、妻のストーカー行為の捜査情報を事前に検察官や地裁から漏らしてもらった高裁判事がいた。ずいぶん以前には、鬼頭判事補という謀略電話野郎まで居った。さらに表沙汰にならずに闇から闇に葬られた裁判官の非行まで含めればもっともっと「威信」は傷つくであろう。
こういう例があると、待ってましたとばかりに、裁判官を採用する際「人格」とやらを吟味せよとの妄説が登場する。筆者は絶対にこの意見に反対する。「人格」で裁判官の採否を決定するとなると、我が国の風土から考えて、また、がんじがらめの既得権ネットワークの存在など現在の我が国の社会状況から考えて、必ずや「コネ、情実、地縁、血縁」などなどが実際の「人格」判断の基準になってしまうと考えるからである。
さて、我が国においては「裁判官は神に如き人格者である」と意識的にせよ無意識的にせよ考えている人が多い。しかしそのことを担保する如何なる根拠も存在しない。そもそも裁判官が「裁きの神」でなければならないなどと考える必要がどこにあるのか。裁判官だって所詮、我々と同じ人間に過ぎないのであるから、いい人もいれば悪い人もいる、堅物もいればスケベだっている。それでよいのではないか、と筆者は考える。可能な限り公正で偏らず、常識的な裁判であれば裁判官の人格云々は関係ないのではないか。むしろ昔の最高裁長官が言ったように、「特定政党の隠れ党員である裁判官がその政党に有利な裁判を下す」危険を避ける方がまだましではないか。もちろん、そんなことを要求しているわけではないが、少なくとも「人格」などというものだけは持ちだしてほしくない。不当な裁判を行えばその裁判官は最高裁によって再任されず、さらに不当な人事を行う最高裁判事は国民審査で罷免するという今のシステムを国民が有効に機能させればいいわけである。
ところで筆者は「裁判官はその職業に就いている故に疑いもなく神のような人格者である」というような考え方を典型的な偏見であると思う。偏見というと「根拠なく予め抱く相手にとって不利な紋切り型の決めつけ」であることが多いが、このように、「相手にとって有利な思いこみ」も偏見である。このパターンの偏見は、この世間に実に多い。たとえば、「先生がそんなことするわけがない。だって教師は聖職だから。」というのがあったが、非行・不良・変態教師の続出を承けて、今時こんな偏見を抱いているのは一部の先生様くらいであろう。また、坊主に対する偏見がある。僧侶は議論の余地のない聖職者である、というか、聖職者とは元来僧侶をさす言葉である。聖職に就いているから聖人でないことは言うまでもないことだが、「仏の弟子である僧侶は、きっと悟りきった大人格者であろう。まして、あのような有名な寺の高僧であればなおさら。」などと無意識に考えている善男善女は結構多い。それどころか、ほとんどの時代を通じて、日本仏教の最高峰の一人と仰がれ今でも巡礼者を引きつけてやまない弘法大師空海が「人種差別の鬼」であったと聞いてびっくりする向きも多いと思う。これなどは「仏教者は生きとし生けるものにいつも平等な視線で接している」等という根拠なき偏見の典型である。
偏見は相手にとって不利なものだけではなく、相手にとって有利なものにも注意しなければならない。そうでなければ今の世の中、いつ何時、思いがけないヤツの想像もできないような騙しに引っかかるやもしれず、安心して生きては行けないと筆者は考える。