管理・監督責任を問う本当の理由
最近公務員の不祥事が多い。つい先日までは警察の不祥事、検察と裁判所、さらには外務省の機密費とやらを巡る不祥事など「枚挙に暇あらず」である。筆者にはいずれも不思議な事件ばかりである。検察官が高裁判事の妻の捜査情報を漏らした事件を考えてみると、情報提供者の検事と情報を貰った判事とが特に友人であったという話はないし、情報を提供したところで当の検事になにがしかのメリットがあった風でもない。要するにルーチン(日常茶飯に行っているおきまりの仕事)に過ぎなかったのではないかと思われる。それがなぜ漏れてしまったのであろうか。テレビに映った当の検事さんの「生意気さ」から視て県警の人々に嫌われていたとも想像されるが、真相は分からない。何者かが何かの意図を以て、いつもは何も問題にされないような「普通の」ことを改めて取り上げたのであろう。外務省の事件だって、確かに挙げられた室長さんの面体は全く「よろしからざるもの」で、周囲から嫌われていたものと拝察したが、犯罪行為そのものは個人的な問題とは考えにくい。また、機密費の問題などは、関係者や事情通にとっては公然の秘密であったという。これもまた何者かが、何かの意図を以て、時期を見計らったあげくに「公然の秘密」を「公然化」したのであろう。
さて、以前の神奈川県警の不祥事の例で考えてみたいのだが、なぜ、本部長は、おそらくは顔も見たことのない様な、組織末端に連なるに過ぎない一部下の犯罪行為を隠蔽しようとしたのであろうか。その答えは、その後の「世間」の動きを見れば分かると思う。世間は、犯罪を犯した当人達(つまり覚醒剤犯の警察官やそれを隠蔽した本部長以下の上司)だけではなく、それを監督する立場の人々に対して「管理責任、監督責任」を問うたのである。当たり前の話じゃないかという人もいるだろうが、ここは一番冷静になって考える必要がある。ある犯罪行為や、不正行為、あるいは不当な行為を行った当の本人が非難されることは当然であるし、その行為を知りながらそれを見過ごしていたならそのことも責められてしかるべきである。また、当然知りうる立場にありながら「うっかり」見過ごしたならばそれもまたそれなりに非難されるであろう。しかし、知り得べくもない立場の人間にまで責任を問うのは決して「合理的」とはいえないのではないか。要するに管理責任とは「具体的」責任ではなくて「抽象的、観念的な」責任である。しかし、大臣になったばっかりで、就任以前の問題の責任を取らされたのではかなわないが、やれ「責任を取って、国家公安委員長を辞任せよ」だの、「外務大臣を辞めろ」だの「もう暫く総理の目はない」などと言われてしまう。
明治以来「管理監督責任」とやらが当然のように問われてきたのが「官」の世界らしい。東郷元帥が日露戦争の時に連合艦隊司令長官になったのも、能力もさることながらその「運の良さ」が大きな理由となったという。運の良さとは、未だ嘗て、自分自身は元よりその部下にも「不祥事」がなく責任問題になったことがなかったことであった。そこで誰だって、そうそう「運が悪い」人間になりたくはない。そこで「自分の知らないところで起こった不祥事に巻き込まれては大変」と言うことになり「それじゃ、そもそも不祥事などなかったことにしよう」となるのは人情の常であろう。
ところで、管理監督責任を問う範囲だが、筆者が不勉強なのかその「基準」を知らない。例えば、「不祥事を起こした本人から何段階上の上司まで」とかいうような基準である。さて、筆者の考えであるが、この責任を問う範囲の基準は「不祥事を隠蔽できたのにそれをしなかったヤツまで」と言うことなのではないか。要するに明治以来「よらしむべし、しらしむべからず」の官僚主義を貫徹するためには「公」の不祥事はあってはならないことなのである。しかし現実の世界では、 あってはならなくても起きてしまうのが犯罪であり不祥事である。そこで「うまくごまかして、国民には知られないようにするのが、役人の能力の見せ所」ということになり、それをやれなかった、「ヘボ上司」には監督責任を取らせ「役人としての出世コース」から外れていただくというルールが出来たのだと思われる。
我々は、「管理責任を取って辞任せよ」などという、無責任な野党や、考えの浅い(もしかしたら深いのかも知れないが・・)新聞などに踊らされてはならないのである。