貧乏人の敵、笑止千万な「ゆとり教育」
文部省が、教育内容を3割減らすことを打ち出した。これまで教育課程の変更の度に教育内容はどんどん削られてきた。お偉い大先生方は、今までの学校の勉強は「詰め込み教育」であって役に立たない、自発的に取り組み、自ら考える勉強こそが創造力豊かな人間を育てるのだと言う。しかし、「考える材料」や「考える道具」に乏しい者がどうやって自ら考え、新たなものを創造するのであろうか。数十万年間に亘る人類の知恵の集積である学問体系を知らずに、古今東西の天才、偉人、頭脳的巨人たちが人類のために残してくれた知識の宝庫を開かずに、どうやって現代に通用する新たな真理を発見し、知識、技術を獲得するというのであろうか。文明が発祥してからでも数万年にも亘る人類の進歩発展の歴史を高々10年前後で自力で経験できるはずがないではないか。まずは古人の確立した学問の足跡を徹底的に「詰め込む」ことが第一歩である。
従来、多くのマスコミや「進歩的文化人」様たちは、「いじめ」「非行」「少年犯罪」「学級崩壊」などの問題が起こるたびに、その原因を「詰込み教育」や「受験戦争」に求め批判してきた。ここで強調したいのは、これらの諸問題と「詰込み教育」や「受験戦争」との因果関係についてただの一度も科学的合理的に実証されたことはないということである。お偉い先生方が「そう思う」という以外の「論拠」を全く聞いたことがないのである。「いじめる」生徒のほとんどは勉強の出来ない子や勉強をしない子ではないのか。破廉恥罪の犯人のほとんどは勉強の出来ない子ではないのか。何の実証データもないのに、サウスポーの先生方が、「ゆとりの教育」を叫ぶわけだが、それによって諸問題は解決へ向かうどころか、ますます悪化の一途をたどっているではないか。
「詰込み教育」や「受験戦争」のせいにしておけば、本当の問題を追求する手間が省ける。うまくいかなければ「まだゆとりが足りないようだ」とか言っていればよい。こんなに楽なことはないわけで、なるべく働かずなるべく多くの賃金を得るという労働組合的な発想だとしか言いようがない。無責任な「心の専門家」が「子供のすべてを受け入れなさい」などとアホらしいことをいかにももっともらしく宣い、「ゆとり」やら「イヤなことはやらなくていい、好きなことだけやっていればいい」などと宣伝するものだから、「動物のように本能と欲望だけで動く子供」の大量発生を来したのではないのか。大人が大人の論理を自信をもって子供に強制する事はよいことだと思う。十分な他律の中でこそ子供の自律性が生まれると思う。厳しい修行をした「一休禅師」が自由闊達に生きたことを思い出せばよい。大人の強制にたいし子供は当然反発するが、そのぶつかり合いの中で子供の自我が確立するのだと思う。そんなことは「心の専門家」の先生方がよくご存じのフロイトの著作にも書いてあるのではないだろうか。
学校の勉強や受験勉強が役に立たないという人たちは、知能に明確な「差」がある現実の中で結果の平等を目指すことが正義であるという立場に立ったとき、勉強自体の意味を否定しなければならなくなるのである。余談であるが、筆者は運動神経が鈍く体育はいつも2の評価であったが、結果平等主義の論者のみなさんに、「鍛えればオリンピックにでも出られるくらいの運動神経の持ち主の才能を筆者の運動能力にあわせて摘んでしまうことが出来るのですか」と問いたい。
学校で勉強した知識は実際役に立つし、筆者のような金もコネもない人間にとって、自分の持っている知識や技術以外に何一つとして自分を助けてくれるものはない。知識、技術だけが生きる力である。その知識の核となっているものは、学校の勉強によって獲得したものである。
明治以来、これといった資源のない日本は世界の国々と何とか対等にやってこれたのは、ひとえに教育による人材資源の開発である。特に受験の時期に多くの若者が一生懸命努力してきたことが、日本の国際競争力を支えてきたのではないだろうか。
そもそも、人々は教育を受ける権利を得たことによって「自由」の恩恵を受けられるようになったのである。無知・無学の人々は結局のところ国家権力や強者にとって「弱肉強食」の肉にしかなれないからである。日本でも江戸時代までは、支配階級や一部の裕福なもの以外の子弟は教育を受けられなかった。多くの人々を「愚民化」しておくほうが支配者にとって都合が良かったからである。
軽薄極まりない「ゆとりの教育」を宣揚しておられるお偉い先生方の多くは、若い頃にさんざん「詰め込み教育」の恩恵にあずかった結果「高学歴」になられた方々である。その方々が何故に「詰め込み教育」に反対し「ゆとり教育」万歳を叫ぶのか筆者は疑問に思う。少しうがった見方をすれば、国会議員も、医者も、俳優も万事世襲の今日この頃において、一部の選ばれた人々の子弟のみに高度な教育を受けさせようとしているのではないかとさえ思う。なぜなら、学校で勉強を教えてくれなくなっても東大を頂点とするヒエラルヒーは厳然と存在し、それに対する競争もやはり存在するのであるから、結局、学校以外における勉強が重要性を増す。つまり学習塾や、家庭教師を利用する経済力がない人々は、現代の国際社会に通用する学問を身につけることも出来ず、競争にもうち勝てないのである。知能を決定する大きな要素は遺伝であるが、同じ遺伝的素質ならば、環境の善し悪しが勝負を決める。松の種をまいても決して檜にはならないが、同じ檜の種をまいても土壌や日当たりの善し悪しで大木になる木もあれば途中で枯れてしまう木もあるのと同じだと考えればよく理解できる。
高学歴のお偉い先生方はいかにも勉強の出来ない人たちの味方のような顔をして「ゆとり教育」を推進しているが、その実、学歴コンプレックスから「一生懸命勉強することが悪いことだ」と思いたい人々の弱点を巧妙につき、結局それらの人々の多くが属するであろう「社会的・経済的弱者」の教育を受ける権利を阻害しているのである。
このまま教育水準の低下が続けば日本の産業は国際競争力を失い、国民の生活水準は下がるしかない。貧乏人はますます貧乏になる。「ゆとり教育」こそ国家の敵であり、貧乏人の敵である。筆者のような「金もコネもない」人々こそ、「ゆとり教育」を明確に否定し、学校教育を、「鍛える教育」へ転換するように要求して行かなければならないと思う。