変な軍国主義

 泰平の世を謳歌した江戸時代、甲冑を着けて戦うわけではなく、弓・鉄砲はおろか槍・薙刀さえそうそう持ち出せない状況で武士達にとって、刀は最も重要な武器であった。幕末の動乱期になっても最初は刀がかなり活躍した。桜田門外の変、坂下門の変の主武器は刀である。近藤勇らの新選組の面々が七人を切り伏せ二十三人を捕らえた有名な池田屋騒動でも、討ち入った方も討ち入られた方も刀で渡り合っている。ところが、まもなく情勢は一変し、長州征伐では、戦闘がすべて銃撃戦に終始した。この戦に参加しさんざんな目にあった紀州藩は、刀や槍による接戦法など何の役にも立たないことを認め、藩士を銃隊に編成し直した。このように、実戦の経験を通して「チャンバラ幻想」は消え失せたかに見えた。

チャンバラは幻想である。 チャンバラ

 欧米諸国の陸軍は第一次大戦を境に従来堅持してきた白兵主義と手を切っていった。ところが我が日本陸軍は、明治42年に改正された『歩兵操典』で白兵主義を打ち出し「チャンバラ幻想」が息を吹き返した。時代の潮流に逆行し、我が国の陸軍は白兵主義を積極的に打ち出していった。第二次大戦中、刀を実用兵器として重視していたのは、独り我が日本陸軍だけであった。日本の陸軍は最後の最後まで白兵主義に固執し続けたのである。 日本陸軍も明治の健軍当初は、火兵主義、反白兵主義であった。幕末・維新の動乱、士族の反乱において白兵主義の敗退を目の当たりにし、日清日露の戦いを通じて火兵主義の優位を知らされたはずの軍人たちが、何故白兵主義に改宗したのか。その最大の理由は「金がないから」ということだった。火力の充実が金が無くて思うに任せない現実を糊塗するために白兵主義が鼓吹されたのである。
 そのほかの理由としては、欧米諸国が火兵主義と平行して、伝統的に白兵主義をとっていたことである。そして、白兵主義のもう一つの根は「チャンバラ幻想」にある。首取りということがあったばかりに、敵に接近して刀を振り回すという、一見白兵戦まがいのことが至るところで行われ、勘違いの元になった。こうした勘違いに「尚武の精神」だの「大和魂」だのという別の思いこみが付け加わって、幻想が妄想にまで達してしまった。勝手な思いこみから生まれた全くの幻想であるだけに、理論や常識が働く余地が無い分かえって強靱で修正不能であった。
 幕末、攘夷論がやかましかった頃、将軍後見職一橋慶喜が上洛して関白鷹司輔煕に面会し、蒸気船がどうの大砲がどうのと外国の軍備の状況を説明し攘夷の不可能を説明した。だいぶ理解してくれてやれやれと思っていたところ、「いや日本には大和魂というものがあるから、決して恐れることはない」といわれて参ってしまったと後に自ら語っている。
 こんな妄想が大手を振ってまかり通っていた時代を、一般に「軍国主義」の時代と呼んでいる。しかし、本当の軍国主義というのは、戦争に勝つためには、可能な限りあらゆることを計算し、可能な限り合理的な対応を考えるものだろう。従って、ドイツやアメリカに対してそう言うならわかる。だが、
戦前戦中の日本を指導していたのは、夢と現実の区別も付かない妄想家か、単にことを好むだけの好戦家にすぎなかったのである(筆者註参照)。

刀と首取り―戦国合戦異説』 鈴木眞哉 平凡社新書 より

筆者註
確かに、彼らは「精神主義」で大衆を洗脳してはいた。しかし、彼ら自身は決して本気で「精神主義」を信じていたわけではない。フィリピン決戦において、陸軍第四航空軍司令官 富永秀次中将は「最後の一戦で本官も特攻する」と言って、62回約400機の特攻を命令し部下達を全員戦死させておきながら自分はさっさと台湾に敵前逃亡している。

敵艦めがけて突っ込む特攻機

しかも、陸軍は富永を一旦予備役に編入してから満州の軍司令官に任命している始末である。彼らは合理的思考能力を失っていたわけでは決してない。もちろん、「チャンバラ幻想」や「大艦巨砲主義」など時代錯誤の戦術論を持つなど、彼らの戦略・戦術能力が他の国々の指導者達に比べ劣っていたであろう事は想像に難くない。しかし、「竹槍でB29を倒す」とか「神風が吹く」などとはよもや本気で考えていたわけではない。当たり前の話であるが、仮にも一国の指導者が全員精神障害を病んでいたわけなどあろうはずはない。



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