歴史学と歴史教育の目的(その1)
最近、歴史教科書を巡る国内外の議論が喧しい。歴史的事実の解釈や意義付けのみならず事実の存否までもが争われている。
歴史学とはいったい何なのか。イギリスの歴史家E.H.カーは、「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。」と歴史学を定義した。アーノルド・トインビーは二十世紀の大著『歴史の研究』において文明の盛衰に関して、文明はその内部的要因によって栄えそして滅び行くことを明らかにした。要するに、歴史的事実の中から現在に生きる我々の進路に示唆を与える学問が歴史学である。ところが日本における歴史学はどうも違うようである。歴史といえば教科書に記載された事項の暗記に終始するというのが歴史教育の実態であるし、日本人の歴史常識はNHKの大河ドラマや司馬遼太郎の小説によって形作られたものが大半で、下手をすると時代劇に出てくる風俗習慣をその当時の実態であると勘違いしている人さえ大勢いる。歴史的事実から現代に生きるための示唆を得るとか将来展望に役立てるとかいうことはあまり考えていない。○○主義の連中が例の「我田引水」の法則を正当化するため自分に都合がよい事実のみを「本質的」だとか何とかいっていかにも歴史から学んでいるような格好付けをしているくらいが関の山である。
戦前における歴史教育は、小学校令施行細則第五条に、『日本歴史は国体の大要を知らしめて、兼ねて国民たるの志操を養うを以って要旨となす』とある。当時の新聞によると、「教科書編纂、殊に歴史に関する現行の方法いかんに付き、某教育大家の語る処によれば、単なる学術的研究としてはその範囲すこぶる広く、また自由なれば、いやしくも国民教育上及びその教材としては、みだりに学術判断を直ちに軽々しく用うるは穏当ならず、また事を誤ることなしとせず、この外大いに国法上及び倫理上の判断をも加えざるべからず、しかるに今回の教科書の見解は、単に歴史の立場より見たるのみにて、この大方面の観察を欠きたるはすこぶる遺憾なることなれば、当局者は今後は歴史科の教科書編纂に関しては、歴史家の外、更に倫理学者及び国法学者の意見をも参照すること必要なりと。」(明治44年2月25日付『東京日日』)
要するに歴史教育は歴史学や考古学とは無関係のものであったわけである。このような考え方が、教科書編纂の基本方針となっていたのである。筆者の考えでは、この考え方は現在の教科書検定でも何も変わっていない。右派、要するに「右の○○党」、の人々がいうように「わが国にとって、(現在の価値判断で悪とされるような)、不都合・不名誉・不愉快な歴史的事実は教えるべからず。」と言うことである。どんな学問でも、真理と真実を追究するものであるから歴史教育と学問とは全く無縁であるということになる。念のためにいっておくと、左派、いわば「左の右○」の連中のいうことはもっとばかげている。例を挙げれば数限りないが、「ソ連の原爆はきれいな原爆」「中国を侵略したのは日本だけ」位ならまだ許せる。しかし、二十年ほど昔に大いに議論されたことであるが、「条約を一方的に破棄し、囚人部隊を先頭に満州に侵攻し残虐の限りを尽くしたソ連軍の行為」について○○主義者や、左○文化人様が「戦争にはありがちなこと」等とのたもうていたことを筆者は決して忘れはしない。
さてさて、江戸時代、学問と言えば朱子学を中心とした儒学が中心であったが、一部に「実学」と呼ばれる学問があった。「本草学」「農学」などの他「歴史学」もその一つであった。実学であるためにはその学を修めることが実践に役立たなければならない。自分に都合がよかろうが悪かろうが、正義だろうが悪だろうが在ったことを在った無かったことは無かったとしなければ歴史学から正しい示唆を得ることは出来ず、実践に役立てることなど出来るはずがない。日本の歴史教育は、人生を生きる上で役立つ教養を与えるものではどうもなさそうである。
古代史学者の直木孝次郎は次のように言う。
「邪馬台国位置論の歴史を見てきたが、それは学問上の問題でありながら、政治情勢と深い関係にあることは否定できないようである。では戦後、特に近年の位置論の隆盛は、どのような政治情勢と関係があるのだろうか。
(略)
私は九州説が、古代の歴史の発展をすべて畿内中心に説明しようとする伝統的考え方に対する反措定(アンチテーゼ)であるところに、ブームの基礎があるのではないかと思う。
(略)
戦後の畿内説では、邪馬台国と大和朝廷とを切りはなす意見(私もその説)も有力になっているが、畿内の先進性の強調は、古代天皇制の合理化にもつながりかねない。そこに私は、畿内説を否定する九州説が熱気を帯びて盛んになった理由を求めたいのである。
換言すれば、反政治・反政府・反東京・反独占資本の気風が、現代の九州説の背景をなしているのである。現代政治への批判が、古代の政治の中心が終始畿内にあったとする歴史観の批判という屈折した形を取って現れているのが、九州説である。(『日本古代国家の成立』講談社学術文庫)
早い話、歴史教育だけではなく「歴史学」でさえ結局政治的なものだということである。直木孝次郎は、「九州説」」を反体制的な政治信条に基づく邪説だと言っているようだが、同様な考え方で立場を変えてみれば直木氏が説く「畿内説」こそ体制擁護のイデオロギーに立脚した邪説になってしまうのではないか。嫌なことも、思い出したくないことも、在ってはならないと思うことも、信じたくないことも分析の対象にしてこそ学問である。こんな調子では、日本では歴史学が真の学問として成熟していないのではないかと思うほかない。
ところで、別に歴史学に限ったことではないが、お世話になった恩師の学説に反することをいうのは結構勇気のいるものらしい。経済学だろうが、法学だろうが同じであろう。自然科学であれば、実験や観察を通して、師の説を客観的に覆すことが可能であるが、社会科学や人文科学ではそうそう明確に覆せるものではない。また、大学の師弟関係は戦前・戦後でとぎれているわけではないから、戦前の史観の影響を現代の歴史学者、考古学者も受けやすい。歴史学などは、そうそう新たな資料も発見されないから、要は解釈をこねくり回し牽強付会を繰り返して、結果、どんな解釈でも可能になるから、師説の墨守になりがちである。考古学だって同じことで、「A文化」の遺物と「B文化」の遺物が同時に存在していたとき、「A文化」を担っていた人々が「B文化」を担う人々に征服された(あるいはその逆)という考え方もとれるし、「A文化」の人々が「B文化」を受容した(あるいはその逆)だけだと言う解釈も成立する可能性がある。要するに言いたい放題なのである。
しかし、筆者の考えでは、好き嫌いとか、政治的に不都合だとか、イデオロギーに合わないとかの邪念を捨て「人間本来の知性」で判断してゆけば、自然科学でなくても、客観的な学問の成立は不可能ではないはずである。歴史を学問の対象とするためには、自分のイデオロギーや、好き嫌い、信じたいとか信じたくないとかで歴史を解釈する態度をなくさなければならないのである。