長さん、龍さん、エライさん

長参謀長と張会長
 
岡県など北部九州には「長」「龍」と言った名字が結構多い。出身地はつまびらかに知らないが太平洋戦争の時、長参謀長という人がいた。戦争末期の沖縄戦、特に戦闘が激しかった本島南部は、沖縄戦跡国定公園に指定されている。沖縄守備軍牛島司令官と長参謀長が自決した壕がそこにある。涙なくしては聞けない悲惨な沖縄戦の最後を飾るのがこの長(ちょう)参謀長である。
 「ちょう」さんと言えば思い出すのが張 富士夫(ちょう ふじお)トヨタ自動車会長(前社長)である。最初張社長と聞いたときには在日の方かと思ったが、そうではない。『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「張家の先祖は代々鍋島藩の教育指南方をしていたほどの由緒ある家系であり、日本人である。」とのことである。以前同じ項目を調べた際には、最後のところが確か「れっきとした日本人」と書いてあった。
 さて「れっきとした日本人」であり、「偉いさん」である、この両「ちょう」さん、何で大陸風の名前を持っているのかなと思ってちょいと調べてみた。

沈寿官と東郷茂徳
 
陸風の名前を持っていて、しかもその由来がはっきりとしている有名どころは沈寿官という薩摩焼(さつまやき)の窯元であろう。現在で14代目(本名・大迫恵吉)である。薩摩焼は、文禄・慶長の役の際に、薩摩藩主島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工たちによって始められた。苗代川(現在の東市来町美山)を中心に、指宿や霧島から白土を見つけ出し白薩摩を焼き上げた。以後、島津氏の庇護のもとに士族待遇で藩主の御用品を焼いた。李朝時代の朝鮮半島には、すぐれた焼き物の文化があり、その一つ沈家の出身である当吉が、祖国の陶土に似た白土を薩摩で発見し、薩摩焼を創製したという。藩主の異国趣味と藩による「陶工純粋培養」政策の結果、「苗代川」では幕末まで朝鮮語が使われており、朝鮮の風習や生活様式も色濃く残していたという。
 さて、太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣
東郷茂徳もまた、朝鮮人陶工の子孫である。5歳のとき陶工でもあり陶芸品を売る実業家として財をなした父が士族株を買い、朴茂徳から東郷茂徳となった。戦後、開戦時の外相であったがために、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁固20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没した。

中世博多の「大唐街」=チャイナタウン
 
て、北部九州の大都市福岡の博多には、かって日本最初のチャイナタウンがあった。博多では、中国出身者を中心とする住宅街の存在を示す史料が、11世紀からみえはじめる。権帥源経信が1097年に亡くなったとき、「博多にいた唐人」が大勢弔ったという記録が伝わっており、遅くともこの時期までには、中国出身の商人が博多に住み着いていたことは確かである(『散木奇歌集』六 悲嘆部)。仁平元年に太宰府目代が「大追捕」を命じたさいに「宋人王昇の後家」をはじめとする1600家の「資材雑物」が奪いとられた(『宮寺縁事抄』筥崎造営事)。日宋貿易の利権争いをめぐる事件があったらしい。
 このように、文献史料から、遅くとも11世紀後半から12世紀前半にかけて博多には中国出身者が多数住みついていたことが知れる。これが、「博多津唐房(はかたつとうぼう)」明代末期には「大唐街」と呼ばれる、日本最初のチャイナタウンである。「房」は「坊」の意味で町の区画をいう。博多駅前の櫛田神社、聖福寺、承天寺を結んだ約500メートル四方の地域が想定されている。その繁栄の様子は福岡市教育委員会が現在まで、23年間にわたって発掘調査を行っている博多遺跡群の調査報告によって全貌が明らかになりつつある。
 この町の中心人物は、「綱首」という肩書きをもつ中国貿易商人で、日宋貿易の中心的な存在であった。綱首の多くは中国明州(現在の寧波)の出身であり、博多に住まいを構えた後も、商業活動を通じて故郷と密接な関係を保っていた。中国浙江省寧波市にある天一閣で「太宰府博多津居住」の宋商三人によって建てられた碑文が発見されている。
 多数の宋人が博多に住むことになった理由は何か。遣唐使や遣新羅使の派遣、帰国の拠点とされた鴻臚館(旧平和台球場跡)は古代政権の終焉と共に11世紀末に消滅した。この消滅期、中央貴族の要請による日宋貿易のため、宋人たちは盛んに鴻臚館に出入りしていた。鴻臚館がなくなると宋人たちは博多部に拠を移したのだという。

博多綱首
 
「博多綱首」とは博多の綱首という意味である。「綱」とは中国語で、一団になって貨物を輸送する組織を意味した。つまり、「綱首」とは、中国人の「船頭」を指すが、宋の時代、中国大陸と博多を往来し巨万の富を築いた貿易商である。
 博多綱首の存在と活躍が、わが国に及ぼした影響力は大きいものがあった。例えば中国からの禅宗の移入である。鎌倉武士の精神的な依りどころは禅宗(臨済宗)であった。その禅宗の日本への招来に尽力したのが博多綱首たちである。
 臨済宗の開祖、栄西は、博多綱首の船に乗り、二度目の入宋から帰国後、建久六年(1195年)、博多にわが国初の禅寺「聖福寺」を創建した。栄西は中国から茶を持ち帰り、日本中に広めたことでも知られる。北条政子を通じて京都にも建仁寺を建てるなど、臨済宗の基盤を確固たるものにした。栄西が、宋からの帰国早々、創建時には今の四倍の広さがあったといい現在でも200メートル四方の広大な境内を誇る聖福寺という豪壮な構えの禅寺が建立できたのは、博多綱首が援助を惜しまなかったからである。当時、博多一帯には「張」姓の宋人たちが数多く住んでおり、栄西はこの張一族の支援を得て、帰国後、聖福寺を建立したのである。

博多遺跡群
 
度に亘る「博多遺跡群」の発掘調査もまた、博多の歴史的発展を明らかにしている。博多が栄えはじめた11世紀後半の地層から、白磁をはじめとする多くの遺物が出土している。櫛田神社に隣接した冷泉公園からは12世紀初めの中国産白磁が大量に発掘された。なかでも専門家が注目したのは碗の糸底に書かれた墨書文字である。墨書の内容には、「丁綱」をはじめ「王綱」「陳綱」「孫綱」など「中国人の姓+綱」の形が一番多い。中国人が綱首となって日宋貿易に従事していたことの証拠である。

張光安
 
世博多の風景を偲ばせるいくつかの寺社が残っている。狭義の博多にははいらないが、1151年の「大追捕」の被害に遭った筥崎宮は、鎌倉時代から博多の網首たちと関係してきた。筥崎宮は、鎌倉時代に京都の石清水八幡宮の「別宮」となった。おそらく、石清水八幡宮が筥崎宮に日宋貿易の利潤を期待していたからであろう。
 こうした関係を示す事例として、いわゆる張光安殺人事件がある。張光安とは、博多の綱首で、通訳や船頭を勤めながら、比叡山延暦寺の末寺である大宰府大山寺の寄人でもあった人物である。また、日宋貿易で有名な肥前国の神埼荘ともなんらかの関係があり、博多に所領を有していたともいわれる。そんな張光安が1218年、石清水八幡宮領筥崎宮の留守であった行編らによって殺害され、それをきっかけとして、京都の延暦寺と石清水八幡宮が衝突するようになった。張光安が殺されたいきさつは明らかではないが、社寺同士の日宋貿易の利潤をめぐる縄張り争いに起因していたらしい。

謝国明
 
福寺は日本に臨済宗を伝えた栄西の開山によるもので、その創建は1195年とも1204年ともいわれる。栄西が源頼朝に宛てた手紙のなかで、聖福寺を建てた場所について、「博多百堂の地は、宋人、堂舎を建立せしめた旧跡」であると述べているので、平安時代にもこの場所に宋人たちが寺院を建てていたことになる(『聖福寺文書』建久六(1195)年6月10日 栄西申状)。
 承天寺は、聖福寺より半世紀遅れて1242年に建立された。開山は、帰国したばかりの入宋僧、円爾である。場所は聖福寺の南、約300メートルの所にある。しかし承天寺は実質的に、博多綱首の、博多綱首による、博多綱首のためのお寺であった。承天寺のパトロンの第一人者が、博多綱首の代表的人物である謝国明である。
 謝国明は中国・臨安府生まれの生粋の中国人で、日本人女性と結婚し櫛田神社のそばに居を構えていた。有名な博多祇園山笠は、700年以上の伝統を誇る祭りで、今でも山笠のフィナーレの追い山では、櫛田神社から走り出た山車が必ず承天寺参りをする。
 謝国明の財力は相当なものであった。円爾を支援していた彼は櫛田神社にも協力を惜しまず、宝治二年(1248年)、承天寺が火災にあった時、彼は「一日にして仏殿など十八堂を再建させた」と伝えられている。
 また、承天寺の火災の6年前には、円爾の中国留学時の恩師、無準師範の住む径山万寿寺が火事にあった際に、円爾は謝国明に頼んで大仏殿再築の木材千枚を寄進させた。これに対する無準師範からの感謝状が東京国立博物館に残されている。
 また、謝国明は、博多近辺の土地を領有していた。彼は博多郊外の野間・高宮(現在の福岡市南区)、原村(同市早良区)などの土地を承天寺に寄進している。これらの土地は、もとは筥崎宮が所領していたものを彼が購入したといわれている。謝国明は承天寺のみならず宗像社とも関係があり、社領の筑前国小呂島というところの地頭を勤めている。

博多商人の登場
 
安末期から鎌倉時代にかけて、明州などから博多にいたる通商路は謝国明のような中国系綱首によって支えられていた。大陸では元によって宋が滅亡し、二度の元冦によって宋人たちは本国との貿易続行が不可能になり博多綱首は衰微の道をたどった。鎌倉末期からは博多商人と称される「日本人」の商人が貿易の担い手となっていく。筆者は、博多商人とは在日中国商人が日本人化した人々であったと考えている。
 このような歴史的な流れの中で、福岡県に多く見られる長(張、趙)さん、龍(劉)さんという日本人が誕生したのであろう。いずれにしても博多のまちの偉いさんの系統であることは間違いない。


参考文献:『国境の誕生―大宰府から見た日本の原形 』 ブルース バートン、NHKブックス



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