インドのカースト制度とダリット
カースト制度とは何か
インドの全人口は2001年の国勢調査では10億2701万であるという。宗教別の人口ではヒンドゥー教徒が全人口の82%をこえている。アーリア人の宗教であるバラモン教が土俗的信仰と習合しつつ、3世紀頃からヒンドゥー教となった。ヒンドゥー教は、時代や地域によって教義の体系が混然としており包括的な整理は困難である。中心となる神々まで違う種々のヒンドゥー教に唯一共通する教義がカースト制度であるといっても良いくらいである。カースト制度はバラモン教時代を含めて、およそ二千数百年の歴史がある。ヒンドゥー教の規範の中心である「浄穢観」に基づいて、ヒンドゥー教徒内の社会的序列を定めている。驚くことに、動物界・植物界・鉱物界にもすべて浄・穢による序列がある。
ヒンドゥー教では「死、産、血」そして「体からの分泌物」が穢れの源とされ、しかも次々に伝染するとされている。穢れると、清めの儀式をやらねばならない。その儀式はバラモンが行う。当然のように儀式には費用がかかる。それがバラモンの生活を支えるという仕組みになっている。それらの儀式でしっかり蓄財したバラモンは地主となり権力を握るという仕組みである。
基本的枠組みとして5つの「ヴァルナvarna(種姓)」があり、それぞれの中に約500の「ジャーティー(jati)」と呼ばれるサブ・カーストがある。結婚は同一ジャーティー内で行われる。
インドの諸民族
インドには、現在約860の民族語があるという。インド亜大陸に、最初に住みついたのはチベット・ビルマ系の言語グループである。次にアウストロ=アジア系の言語グループが住みついた。彼らの文化に特徴的なモチーフは種々の蛇の文様などである。次に現れたのが、ドラヴィダ系言語グループである。彼らは西アジア、地中海沿岸地方からインドに入ってきた。ドラヴィダ系言語は今日も北インドのガンジス河の流域に残っている。ただし、今のドラヴィダ人は南インドに集中している。このドラヴィダ系グループが、インド西部・インダス河の流域やその西方のパキスタンの丘陵地帯に青銅器をともなう農耕社会、インダス文明の担い手であった。
インダス文明が滅亡した前15世紀頃に、色の白いアーリア系グループが侵入した。彼らは元来ロシア南部にいて、インド系とイラン系に分裂し、おそらく気候変動などに影響されて移動を開始した。彼らはBC1000年頃にガンジス流域へと進出し、農耕社会を築いた。彼らはここで部族を単位とした社会を構成した。主として牛、羊、馬の牧畜をして、農耕では大麦の生産をした。牛がもっと大切な財産であった。アーリア人はそれ以前から住んでいた人々を征服し隷属民にしていった。また、ドラヴィダ族よりさらに以前の先住民族の一部は、東北部の山岳地帯やデカン高原の奥地に逃れていった。すなわち今日の「指定部族」である。
アーリア人の生活の規範であり、神話的歌謡である「リグ=ヴェーダ」の成立はBC1200-1000年頃である。バラモン教では輪廻という発想が広く行われた。生けるものは次の世に向けて無限に生死を繰り返すというものである。これもウパニシャド哲学において、盛んに論じられたが、共通に見られる特徴は善因善果、悪因悪果の応報説に基づいていた。この発想は仏教にも引き継がれ、「今の世でにおいて不幸なのは、前世の行いが悪かった報いである」という宿業が説かれた。
カーストの歴史
カースト制度の起源は不明瞭であるというのがほんとうのところである。しかし、アーリア人の移動仮説のいくつかの解釈が、カースト制度が侵入の産物であったことを理論づけている。それは、アーリア人が自分たちのために、より高いカーストを用意して、彼らが征服したより暗い皮膚をした在来の住民をより低いカーストおよび不可触身分に降格させたという考えである。
カースト制度出現の最も受け入れられた理論は、一つの複合システムへ他民族社会を統合する便利な手段として、ヴェーダの人々によってカースト制度が発明されたということである。つまり、アーリア人が先住民を支配するために、ヴァルナ制が作られていったと思われる。すなわち人種差別・民族差別がカースト制の根幹にあった。
後期ヴェーダ時代に宗教の名のもとに、力と権威の地位にある人々によってカースト制度は正当化され利用された。 彼らの目的は、バラモンの支配を貫徹して、支配階級への競争を抑えることであった。
バラモン教の時代では、カースト制度はヴァルナ制と呼ばれた。「ヴァルナ」は「色」である。しかし、ヴェーダ時代には、カースト制度はあまり厳密ではなかった。この時代には、「ヴァイシャ」という単語は彼らの職業と家系の如何にかかわらず地域の人々をすべて示していた。リグ・ヴェーダの賛歌に明らかに示されているように、カースト制度の基本的な形式は、誕生ではなく職業に依存していたらしい。
「バラモン」あるいは「ブラフマン」という語は、元来、「ブラフマンを悟った人」、「最も高い神であるブラフマンと一つになった人」、あるいは「ブラフマンについての知識を持っていたか、その最高の知識のためにバラモン自身になった人」を意味した。しかし、次第にこの単語は、「バラモンの家族のなかで、バラモンの父に生まれた人」を意味するようになった。
一つの世代からもう一つの世代まで口伝形式でヴェーダの知識を受け渡す伝統のおかげで、ヴェーダの呪文が操作され、いくつかの新しい詩が、カースト制度を正当化しバラモンの支配権を確実にするために如才なく故意に初期のヴェーダ聖典に組み入れられた。リグ・ヴェーダの巨人の歌(Purusa-sukta)は確実にリグ・ヴェーダへの後日の添加であるとされる。バガヴァッド・ギーター/Bhagavad
Gita(神の詩)にはカースト制度への言及があるが、クリシュナ自身がバラモンでもクシャトリアでもなく、近代のマトゥーラの近くの牧歌的な共同体に属していた。
マヌ聖伝書(法典)の出現は、カースト制度を柔軟なままで残す機会を封印した。古代に書かれた社会・宗教の法の最大級の本の一つであるマヌ法典は人間の行為と信仰生活のありとあらゆる局面を入念に詳説した。そして、バラモン階級の優位とすべての宗教上の儀式を実行する明白な権利をしっかり確立した。
今日のカースト制度は単に元の4つの部門ではなく数百と数千のカーストおよびサブカーストを含んでいる。多くの外国の侵入、新しい種族との接触が、法を手直しして様々な外観で新しい人々を認めるようなカースト制度の変更をバラモンにうながしたに違いない。
カースト制度は、義務しか持っていなかった圧倒的多数の下位カーストを社会から疎外し、彼らの時代の出来事に無関心で無関係にした。社会的な前進と経済的自立の見通しがなく、いつも束縛のもとにおかれ、様々な種類の社会的な障害に苦しみ、何らの尊厳もなく、動物のそれに匹敵する社会的地位を有したヒンドゥー社会の3番目か4番目のクラスの市民になった。
国家が要求したとき、税金を支払わないことは即死を意味した。しかし、彼らが心から国法に従順であり、納税し、または義務を果たした限り、だれが王位に就いたか、何が美徳あるいは悪か、またはさらにいえば、どんな宗教、王が何を実践したか、または主張したかはほとんど重要ではなかった。
赤貧かつ最低の社会的身分に引き下げられ、彼らが参加する見込み全くない政治体制によって圧迫され、彼らを回避した宗教によって非難されていたので、彼らは、川から木、大地から空、様々な精霊、幽霊および悪魔から様々な村の神まですべてを崇拝した。
仏教がなにがしかの救いを彼らに与えたと信じることは難しい。なぜなら、それは頭の悪い人のための宗教ではなかったからである。 それは、特権階層によってさえ実行するのが難しかった内面の清浄と観測を要求した。支配者は彼らにほとんど注意を向けなかった。理論的には、これらの人々は、惨めな生活を送り、彼らの前の悪い動作の結果に苦しむという業の冷酷な法則によって運命づけられていた。
奇妙なことは、インドの多くの古代の支配者がバラモンでもクシャトリアでもなく、より低いカースト出身であるということである。 多くの予言者と聖者の場合もそうであった。 たとえば、マガダ国の支配者の大部分はより低いカーストから来た。 しかし、より低いカーストの向上のために働きはしなかった。
仏教に改宗すると、マウリヤ朝のアショーカ皇帝は、多くの人々が彼に続くのを奨励したに違いない。 しかし、彼がより低いカーストに特に同情的であったとか、彼らの福祉のために取り組んだと示唆する証拠はなにもない。
ダリットの起源
ダリットはただ一つの同一視することのできる人種あるいはカーストではない。現代のインドでは、「ダリット」という単語はヒンドゥーの4つのヴァルナのいずれにも属さないすべての人々に適用されている。この定義による「ダリット」は、低いカーストあるいはアウトカーストのヒンドゥーだけでなく、アニミズム信奉者も含んでいる。移民が構成する社会を含むかもしれない。
低位カースト、アウトカーストはさらに、「ジャーティー」として知られている様々なサブカーストに分割される、それらのなかで最も低いランクに属しているのが、一般に不可触民であると考えられている。
ここでは、この指定カースト、不可触民、ハリジャンなどとも呼ばれ、仏典で旃陀羅と音訳されているチャンダーラなどの被差別民をダリットとして論を進める
ダリットの起源は、カースト制度と同様に不明瞭である。不可触の考えが生まれるのは、マヌ法典以降ともいわれる。紀元後3・4世紀になっても、あらゆる賤民が不可触民ではなく、いわゆる、不可触民という概念が確立するのは、インド中世の紀元後8〜11世紀頃であるともいわれている。マヌ法典や仏典にはっきり現れているように、差別すべき人間を差別することこそが規範であり道徳であった。
カースト制では、同一カースト内部の結婚が厳重に強制され、他のカーストと混血したものはその共同体から追放された。それがチャンダーラであると、マヌ法典や仏典では説明している。しかし、チャンダーラは先住民系の一部族の名称だったらしい。
元来、狩猟文化(「殺生」、皮はぎ、肉食)と密接なつながりを持っていた文化的に異質な集団が、定住農耕社会の周縁に組み込まれて、人々の忌避するような仕事をするようになり、さらに血統意識が加重されることによって、代々穢れがみについて、けっしてのぞくことができない存在という、賤民観念が生まれたとも考えられている。
最近の理論は、アーリア人と先住民の、より平和な混和を受け入れて、アーリア人の移住の前に南アジアの在来のドラヴィダ民族のなかの圧迫された階級としてダリットが存在したと考える。この最近の理論では、ダリット身分は、アーリア人とドラヴィダ人の社会統合の一部としてアーリヤ人によって単に保持され広げられただけということになる。
少なくとも一つの研究によって、カースト身分と遺伝子マーカーの間の相関関係が、上位カーストがよりヨーロッパの血統を示すように思えるのがわかったが、カースト区別の明瞭な生物学的根拠は決定的には明らかにされたとはいい難いようである。
ダリットと非ダリットの間の強い遺伝子分化の欠如は、しばしばカースト障壁が一般的に知覚されるより歴史的に透過性であったという証拠とみなされる。異人種間の結婚、あるいはカーストの境界線を横切る性的な背信は以前に考えられていたより一般的なのかもしれない。さらに、ダリットの多様性は、長年に亘って新たにアウト・カーストになった個人あるいは共同体のためであるかもしれない。ダリットと考えられているある地方種族が、インド人によって人種的に別個のものとしてしばしば見られていることは注目に値する。彼らはビルマ人、タイ人、および他の南東および東アジア人に、より密接に関連しているとしばしばみなされている。
伝統的なヒンズー教徒の確信では、歴史的にダリットは、しばしば不純であるとみなされる職業に関連している。すなわち、殺すこと、死体の取り扱いをともなう、または塵芥あるいは人の排泄物を処分することをともなうあらゆる職業である。これらの活動に従事することは、それらを行った個人を汚染していると考えられ、また、この汚染は、「伝染性である」と考えられた。その結果、ダリットはヒンズー教の信仰生活に完全に参加するのを一般に禁止させられた。たとえば、彼らは寺の境内に入ることができなかった。そして、ダリットと、より高いカースト・ヒンドゥーとの偶発的な接触を防ぐための入念な注意が見られた。
ダリットに課せられた職能は、清掃・芸能・皮革・酒造・織師・竹細工・金銀細工・弓矢製造・植木栽培・医者・産婆・占星術・洗濯・散髪・動物飼育などに分かれるが、地域差がある。
ダリットと最も低いシュードラ・カーストの間には、歴史的に、明瞭な境界設定はなかったかもしれない。英国の植民地時代の国と領土が不動となる前には、ダリットにとって、シュードラあるいはより高いカーストとして梯子を上へ移動することが可能だったかもしれない。同様に、最も低いシュードラ共同体からの何人かの人々がダリットに降格したかもしれない。なぜなら、文化的に、カーストを横切って連続性があるように見えるからである。
宗教とダリット
過去数世紀に他の宗教に転向した多くのダリットが、彼らのダリットとしての同一性を保持し続ける。イスラム教は、アラーの神のもとでは信者はすべて平等なので身分差別は公には認めない。したがって、前不可触民でイスラム教に入信した者も多かった。パキスタンでは、すべてのヒンズー教徒の60%以上がダリットであるが、パキスタンがイスラム教支配であることに留意する必要がある。キリスト教徒の約70%は前不可触民の出であって、数世紀前にクリスチャンになっていても、その家系に対する賤視は今でも残っている。シーク教は、偶像崇拝・沐浴・聖典学習などのヒンドゥーの教義や儀礼を否定し、唯一全能の神のもとでは、すべての人間は同胞とみなされる。したがってシーク教徒も前不可触民の出身者が多い。
ダリット出身の初の大臣としてインド憲法を起草したアンベドカルに導かれた新仏教徒が、1960年代以降の解放運動の中心だった。新仏教徒は、1970年代はまだ600万ほどだったが、今日では約1000万人に達している。
キリスト教徒やイスラム教徒のダリットも、それぞれ独自の立場で解放運動をやっていたが、1992年に宗教の各宗派を統合したダリットの全国連絡会議「ダリット連帯プログラム」が初めて結成された。
インドにおける諸宗教の分布情況(2001年、国勢調査)
ヒンドゥー教徒 82.41%
イスラム教徒 11.67%
シーク教徒 2.32%
キリスト教徒 1.99%
仏教徒 0.77%
ジャイナ教徒 0.41%
霊とダリット
ビッラヴァ(Billava:狩人)
ビッラヴァは南インドDakshina Kannada地区で最も大きい共同体である。ビッラヴァは肉を食べ、バラモンから隔離を強制され、ヤシ酒を造る、不可触民カーストであった。Bhuta(悪魔)崇拝はすべてビッラヴァに依存している。
Bhuta(または、Daiva)のどんなお祝いでも、ビッラヴァの存在が不可欠である。 彼はpatri(悪魔のダンサーと一緒に、Bhutaによって所有されている人)の役割を果たす。
Iyer, L. K. A., The Mysore : Tribes and Castes. 2005
カースト制度の変化
時代の進展につれてカースト制度も変化してきているらしい。インド憲法は、不可触民制の廃止を宣言し、「指定カースト」、「指定部族」、下級カーストの「後進諸階級」の三集団に対する特別措置を設けることを定めた。すなわち、教育と公的雇用と議会議席の三分野で、留保システム(reservation
system)の実施が宣言され、国家が定めた委員会によって次々に新政策が実施されてきた。
1991年に国民会議派のナラシマ・ラオ首相が市場の自由化政策を導入し、新産業路線を実施した。国家による経済統制を大幅に緩和して、外国からの投資に門戸を開いた。IT関連産業の開発を最優先課題として、大学を各地に増設した。その結果、国内総生産は6%をこえる高度成長が毎年続いた。外貨準備高も増え、一人当たりの国民所得も倍増した。知識人階層が増え、アメリカなど外国への留学生も増大した。社会意識や文化的価値観の分野でも、大きい構造的変動をもたらしつつある。
ラマ政権は文化面における開放政策も実施した。テレビを中心としたメディア改革で、報道管制は大幅に緩和され、国営TVだけだったのが今では30チャンネルをこえるTV番組が放映されているという。
大学でも人権教育が始まり、世界の新しい情勢を学んだ若い人たちは、カースト制そのものを原理的に問題にするようになった。
戦後インドを指導してきた「国民会議派」は、今日では国会で過半数をとれず、下層カーストとダリット出身の議員が多い「中道・左派グループ」が進出してきている。残りは、北インドの上位カーストを中心に組織されたヒンドゥー教至上主義を唱える「インド人民党」があり、パキスタンとの紛争や原爆実験など保守系の民衆を煽って国家権力を握っている。