皮革の歴史

1.世界
 革の使用は、先史時代までさかのぼる。およそ50万年前の氷河期に生きた太古の人々は、悪天候から身体を保護するために動物の皮を使用した。今日の革が副産物であるように、私たちの遠い祖先は主として食べるために狩りを行った。皮から肉をこすり落とし、外套として利用した。 また、小さい皮を使って履き物を作った。
 古代人が出くわした主な問題は、皮が比較的短い時の後に腐食してしまうということであった。 その後、複数のものが革の腐敗を減速させることができることを発見した。さらに、様々な油性の物質が、それらを柔らかくするために使われた。紀元前8000年頃、皮を煙でいぶして防腐加工を施し、獣脂を塗って皮革を使っていた。イタリアのアルプスで発見された紀元前少なくとも5,000年をさかのぼる有名な「アイスマン」は非常に長持ちする革の服を着ていた。
 紀元前3000年頃になると、ある種の木の樹皮が生皮を私たちが今日革として認めるものに変換するのに使用できる「タンニン」を含んでいることが発見された。皮をタンニンを含む汁につけて着色したり、なめしたりしたのである。
「なめすtanning」というのは、皮をやわらかくし使いやすいものにすることである。
 革なめし法は人類文明の早期から、非常に多くの地理的領域で使用された。 アメリカインディアンによって使用された技法は、皮を灰汁ににつけるというものである。 数週間で、原皮だけを残して、肉の破片と毛が除去され、アメリカツガとオークの樹皮の溶液を使用してなめした。

 
革が履き物と衣服以外にも多くの目的に使用できることがわかるにつれ、革の用途と重要性は大いに増加した。 例えば、水が革袋のなかで新鮮で冷たいままであることがわかり、皮革がテント、ベッド、敷物、甲冑、馬具などに適していることがわかった。古代エジプトでは、革は貿易の重要品目であった。 エジプト人は革をなめしサンダル、ベルト、バッグ、盾、馬具、クッション、および椅子を作った。同様に、ギリシア人とローマ人は、多くの異なったスタイルのサンダル、ブーツ、および靴を作るのに革を使用した。
 古代のギリシアには、初めに革加工の施設で雇われ、その後独立するプロの革鞣し工がいた。 針葉樹とハンノキの樹皮はタンニンの源として使用された。さらに、ざくろの皮、ウルシノキの葉、クルミ、ドングリの萼ならびにるミモザ樹皮からもタンニンを取った。ギリシア人はまた、明礬なめしに詳しく、さらに、魚油を用いたなめしに関しする知識も持っていたようである。ホメーロスはギリシア人による牛皮、ヤギおよびイタチの革の使用について言及している。

 
代が中世へと進むに従って、革の人気は増し続けた。中世において群を抜いて優れた革職人はアラブ人であった。ムーア人は後にモロッコ革としていまだに知られている美しいヤギ皮の製造技能を見いだした。モロッコ皮は今日でも、特に小さい革製品の製造で、非常に高く評価されている。
 中世のイギリスでは、革の取り引きは他の産業と同様に靴職人、帯製造業者、手袋製造業者、、馬具製造人などを含む多くのギルドによって管理された。刀の鞘、短剣鞘、箱の覆いや水筒など、すべての種類の入れ物は革から作られた。革は装飾美術のための恰好の媒体であった。馬が輸送の主要な手段であったので、馬具の作成は革の重要な用途であった。

 
ーロッパやアメリカで、かしわの木の皮から、タンニンを取る方法が発見され、1760年に英国のマックス・ブリッジが、皮をなめすのにタンニンエキスを使う方法を考案した。19世紀の後期まで、皮革製造に使用される方法の変化は比較的わずかしかなかった。 工程は200年間以上ほとんど変わっていなかった。 しかし、産業革命はなめし法にもおよび、広範囲の染料、合成なめし剤が紹介された。1858年には、クナップが、鉄、アルミニウム、クロムなどの金属を主とした薬品によるなめしの方法を発見し、現在ほとんどが「クロムなめし」になっている。

2.日本古代
 
録上、日本最古の皮革は大和時代に朝廷に献上された「亜久利加波(あくりかわ)」である。「亜久利加波」とは、皮についた脂を取り除いただけの毛皮で、「なめし」はされていなかった。崇神天皇の時代、鹿、カモシカ、猪、熊などの皮革類は「弓弭(ゆはず)の調」と言い、朝廷への重要なみつぎものであった。ちなみに女は「手末(たなすえ)の調」として織物などを差し出した。弓弭とは弓の両端の弦をかけるところである。
 古代もっとも愛用されたのは鹿皮であった。古文で革足袋といえば鹿革の足袋のことである。鹿皮の最大の特徴は、通気性、耐久性に優れ、「しなやかさ」や加工性のよさである。牛や馬のような大型で硬質な獣皮の加工技術は、鹿のような中小動物の皮のそれよりも歴史的には後世に始まったものと考えられている。
 飛鳥時代のはじめ西暦493年(仁賢天皇6年)に日鷹吉士が高麗に派遣され、工匠・
須流枳奴流枳を連れ帰り、大陸の進んだ製革技術が日本に伝えられた。額田邑の皮工高麗の先祖である。当時の手法は「燻なめし」であったようである。
 延喜式(927年)から当時の日本各地の特産品が推し量れる。民部(下)の交易雑物の頃には各種皮革の産地として、
伊賀・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・近江・美濃・信濃・上野・陸奥・出羽・越前・加賀・能登・越中・越後・丹波・丹後・但馬・因幡・出雲・石見・播磨・美作・備前・備中・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予・紀伊・太宰府
の43か国があがっている。
 最多は鹿皮類で35か国、牛皮が14か国である。
 当時の皮革の用途としては、鞍・馬具・甲冑・刀剣・弓道具等の武具のほか履・敷物・衣料・腰帯・紐・装飾品・吹皮(ふいごの皮)などがあったらしい。

3.中世
 
11世紀初めの京都には、「河原人」と呼ばれる被差別民がいて、斃牛馬の処理に携わっていた。鎌倉時代には、なめし技術はさらに発展をとげた。皮革は武具の製造に不可欠のものであった。また、膠は高性能の接着剤であり、これまた武具の製造には不可欠であった。また、牛の胆石=「牛黄」は、非常に高価な漢方薬であった。

 戦国大名が、城下町を作る場合、しばしば自分の出身地の「かわた」を呼んで、皮革の納入を義務付けたことはよくしられている。「皮役」を課されたことによって、皮革製造が次第に「えた」身分の人々の独占するところとなっていった。

☆皮革と穢れ☆
 西日本では穢れに対する忌避が強くなり、葬送にかかわる人々、死んだ牛馬を処理し皮革を作る職能民に対する賎視は、次第に社会の中で固定化されていく。(網野善彦『
日本社会の歴史〈下〉』岩波新書)しかし東北では、皮革処理に対する穢れ意識は近世に至っても希薄であった。(赤坂 憲雄『東西/南北考―いくつもの日本へ』岩波新書)

☆千利休は皮屋であった☆
 武野紹鴎は堺舳松の商人で武具製造に関わったが、『開口神社文書』の天文4年念仏差帳日記には「皮屋」とある。紹鴎は皮革商人として財をなし、堺の会合衆となった。武野紹鴎は、若狭の守護大名武田氏の後裔だという。父の信久は、諸国を流浪したあげくに、和泉の堺に移住し姓を武野とあらためた。堺の町で皮革業を営み、一代にして財をなしたという。この武野信久の子が、紹鴎である。(桑田忠親著『茶道の歴史』講談社学術文庫・・・東京堂出版)
 堺の魚問屋に産まれたとされている千利休は、武野紹鴎に学んで侘茶を完成した。和泉の南王子村は独立村を形成する被差別部落であったが、その庄屋の記録『奥田家文書』によると、南王子村では雪駄を作っていた。雪駄というのは、「竹皮草履の裏に牛皮を張りつけたもの。千利休の創意という。(広辞苑)」。利休もまた皮革業に関わった可能性が強い。(沖浦和光著『竹の民俗誌―日本文化の深層を探る』岩波新書)

『開口神社文書』:鎌倉時代から江戸時代にいたる開口神社と大寺念仏寺(おおてらねんぶつじ)関係の古文書。内容は田地寄進状、田地売券、所領安堵状、室町幕府関係文書、秀吉朱印状など。堺の歴史を知るうえで欠くことができない史料である。

4.近世
 
本において、現代につながる製革技術の基礎が確立されたのは江戸期である。そのころには、牛馬の皮が多く使用されていた。江戸時代に入ると貨幣経済が発展し、都市へ人口が集中して消費者が出現、商人も勃興してきた。そのような情勢の下で革製品もまた全国へ流通していった。
 
一般に斃牛馬の処理が「えた」身分の特権でもあったことはよく知られている。そのため、ついそのイメージに引きずられがちであるが、むしろ、まったく関わりのないところが多かった。
 死んだ牛馬は、村はずれの馬捨場へ捨てられ、そこで処理された。徳川幕府は、弾左衛門に関八州および甲斐、伊豆、駿河、陸奥の十二カ国における皮革取締りの特権を与えていた。そのため、関東では、弾左衛門の配下の者が、持場を見回って斃牛馬を取得していた。また、見回りと斃牛馬の解体は「ひにん」の役目であった。これに対して関西などでは、「えた」が解体もおこなった。牛馬のもとの所有者は「祝儀」あるいは「布施」という名目でかたづけ料を払っていた。
 弾左衛門は浅草亀岡町(現在の台東区今戸)に千坪以上の広大な邸宅を構えていた。屋敷の広大さは大名屋敷並といわれ、加えて三千石の収穫が上がる田地を所有していた。

☆白革師☆
 京都においては、太鼓や沓などの一部をのぞいて、革細工は基本的に町人身分の仕事であり、「えた」身分のものがそれに従事することは出来なかった。1723年 (享保8) に往古より男山八幡宮の神人として鹿革の製造にたずさわっていた白革師から、京都の被差別部落で行われていた鹿革製造を禁止するように奉行所に訴えがあった。奉行所より鹿革製造禁止が言い渡されて困った部落の鹿革業者や京中の足袋屋などが奉行所に懇願し、細工物の材料としてだけ使うことを条件に、1731年 (享保16)ようやく製造再開がゆるされたという。

☆姫路藩の皮革専売☆
 姫路藩の家老、河合道臣(寸翁)は、累積債務73万両、極度の財政危機に喘いでいた姫路藩の財政危機を乗切るため、倹約令の発布を手始めに、種々の施策を打ち出した。藩が独占して姫路木綿を大坂の商人を通さず江戸で販売する専売システムを思いつき、絹、皮革、藍、砂糖、東山焼、竜山石などを次々と藩の専売にしていった。
 徳川中期以後、「白靼革」を中心に広汎な発展を遂げつつあった姫路藩における皮革業は、藩の統制下に組入れられるようになった。姫路藩は「革会所」を設置し、枚数に応じて運上金を賦課した。藩は進んで皮革業を保護・奨励した。領内「斃牛馬」からとれる原皮だけでなく、大阪から原皮が移入され、白靼革の生産が行われた。

5.近代
(1)弾左衛門
 
治維新直後には、弾左衛門の特権は従来どおり維持されていた。最後の弾左衛門(明治三年に弾直樹と改名)は、皮革産業を部落民の生活保障の手段として、近代工業として育てあげたいと考えていた。皮革や履物の仕事が中世以来の被差別部落の伝統的な仕事の一つとしてあり、靴の材料となる皮を集めるルートや基礎的な加工技術がすでにあったからである。
 しかし、明治四年(1871)三月に明治政府は「斃牛馬処分自由令」を出した。
「従来、斃牛馬これある節は、えたへあい渡し来たり候ところ、自今牛馬はもちろん、獣類たりとも、すべて持ち主の者、勝手に処置いたすべきこと。」太政官
 これによって、「えた」身分の人々の斃牛馬独占処理権が失われた。

 
靴の需要が拡大することを予感した弾直樹は、1871(明治4)年、3人の中国人を靴作りの指導者として雇った。また、アメリカ人の製靴技師チャールス・ヘンニンゲルを雇用して、滝ノ川に皮革・靴伝習所を開いた。ヘンニンゲルの指導の下に製造された造靴用の革はチャールスにちなみ「茶利皮」と名づけられた。1872(明治5)年1月には隅田川に水利を求めて工場を浅草橋場町に移し、「軍靴12万足、十ヵ年納入」を受注すると製造工場を拡張し、靴工見習451名を募集して養成に熱中した。こうしたことのために弾は膨大な私財を投資した。江戸時代、三井と並ぶ江戸第一の大富豪と言われた弾左衛門家の財産も、この投資のためにほとんど使い果たされてしまうほどであったという。しかし、十ヵ年契約は一年を待たずに中止となり、弾の事業は決定的な打撃をこうむった。この理由について筆者は、戊申戦争の時に甲陽鎮撫隊に協力した弾左衛門に対する明治新政府の意趣返しではないかと推測している。その後、三井の北岡文平が監督に入り、名称も「弾北岡組」と呼ばれるようになった。事業は製革と製靴に二分され、製靴部門は明治5年12月浅草亀岡町にある弾の邸内に移された。結局、皮を集約する権限を奪われたことが決め手となって、1874年(明治7)、弾直樹の皮革会社は倒産した。
 1871年(明治4)8月28日の太政官布告(いわゆる「解放令」)により、「ひにん」とともに「えた」の称は法的に廃止された。ところが、この太政官布告後、被差別部落の生活はむしろ悪化していった。「解放令」の「身分職業共平民同様」は、士族らの皮革業進出を招来し、部落の皮革産業を危機に陥らせた。その典型が、弾直樹の皮革会社倒産である。さらにこれに追い打ちをかけるように、「松方デフレ」による深刻な不況が襲ったのである。

☆松方デフレ☆
 明治政府は、西南戦争の戦費調達のため大量の不換紙幣を発行した。当然、急激なインフレが起こった。そこで、大蔵卿松方正義は、強力なデフレ政策を1881年(明治14)から数年間にわたって敢行した。唯一の発券銀行として日本銀行(1882)を設立し、極端にマネーサプライを減少させた。その結果、近代的通貨・信用制度が確立し日本の資本主義の基礎が出来あがっていった。このあと日本は産業革命に突入していくことになる。しかし、一方でひどい不景気に見舞われた。農民は春にはインフレの中、高額で肥料などを購入していながら、秋にはデフレで農産物価格が暴落しているということになる。このため地価の3%であった地租が払えない農民が没落して小作農となり、逆に余裕のあった有力農民は土地を買って寄生地主となった。これを「松方デフレ」という。
 松方正義は、大久保利通や西郷隆盛らと同じく鹿児島生まれで、維新の「元勲」の一人である。地租改正、デフレ政策による貨幣価値の安定、銀兌換制の確立、日銀の創設、金本位制への移行、内閣制度による初代の大蔵大臣と、近代日本の金融・財政制度の確立に大きな役割を果たしたとして、財政家としての評価が高い。

☆甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)☆
 慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いに敗れた旧幕府軍は江戸へ退却した。薩長新政府は有栖川宮を大総督として東征軍を組織、東海道・東山道・北陸道から江戸進攻を開始した。徳川慶喜は全権を勝海舟に委ね、上野の寛永寺に謹慎し恭順の姿勢を示した。新選組は、江戸城の全権を握った勝から、東山道より侵攻し来る東征軍を防ぐため甲府城を本拠地にした迎撃を命じられ、近藤勇は若年寄格となった。
 新選組は江戸で新たに隊士を募集した。松本良順の呼び掛けもあって、弾左衛門の協力を得て人員を補強した。ミニエー銃を中心とした新式小銃300挺で武装し、四斤山砲(大砲)2門を備えた総勢150〜180人の部隊は「甲陽鎮撫隊」と命名された。
 当時、甲府は「江戸の西の要」として重要視され、甲府城は、江戸を防衛するための大要塞であった。
甲陽鎮撫隊は甲府城へ入城すべく進撃したが、一足早く板垣退助率いる官軍が、甲府城に無血入城した。その報を聞いた、近藤勇らは柏尾に陣地を構築して官軍を迎え撃つ。官軍は各地で実戦を経験した猛者ばかりのうえ、アームストロング砲などの最新式の兵器を装備していた。甲陽鎮撫隊は、官軍に惨敗し江戸へ潰走した。
 近藤らに甲府行きを命じたのは勝による策略であったらしい。東征軍を甲府で迎え撃てと近藤らに命じた勝はその頃既に江戸城無血開城の準備を進めていたのである。つまり、徹底抗戦を叫ぶ近藤らを江戸から遠ざけるのが目的だったのである。

(2)鞣革靴練習所
 
阪朝日新聞 1916.8.21-1916.8.25(大正5)紀和版の記事によると、西洋式の製革事業が和歌山市で始めて行われたのは明治2年である。陸奥宗光は欧米各国を歴訪の後、郷里和歌山で演説をした。曰く「日本の国を強くし、且つ冨まさんには兵制を完全にし、産業を発達せしめねばならぬ。兵制を完全にせんとすれば鉄と皮の供給豊富にせねばならぬ。製鉄事業を盛んにするには容易の業ではないが、皮ならば極めて簡易に行われる、之は当然来るべき時代の要求である。他の気付かざるに当たって先ず藩として之を起こすべし。」と。
 和歌山藩は直にこれを行うことになった。陸奥宗光は早速、ドイツ人ケンベル等を連れて来る。和歌山市本町一丁目に「鞣革靴練習所」を設けて、製革を教えしめた。これを習ったのは藩士の次男三男、いわゆる部屋住の連中であった。西村勝三なども和歌山へ来て学んだという。

(3)伊勢勝造靴場
 
西村勝三は上級武士の出身であった。祖父と父は、槍の師範で、父は、佐倉藩の分家の佐野藩の家老であった。26歳のときに商人となる。伊勢勝銃砲店を開き、銃砲ばかりでなく、ピストルの革袋も扱った。大村益次郎から軍靴の注文を受け、明治3年(1870)3月15日、東京の築地入船町(現在の中央区築地1丁目1番地)に日本最初の洋式製靴工場「伊勢勝造靴場」を開いた。しかし、洋式皮革加工法がなく、靴の材料の革は外国から買っていた。勝三は明治3年10月に製革工場をたて、明治5年になってようやく、軍靴用の甲革の製造に成功した。
 最後の佐倉藩主である堀田正倫は資金を出して、下級武士の子弟に職を与えるための「相済社」という組織をつくらせ、藩校成徳書院の隣りの「演武場」をつくりかえて工場にし、武士の子弟に靴づくりを教えることにした。勝三は、伊勢勝造靴場から3人の指導者を送った。靴工はおよそ50人で、1年間で1万3千5百足を作ったといわれている。この中の1人が、後に日本人としてはじめて明治天皇の靴をつくり、宮内省御用達の看板をかかげた大塚製靴の創始者大塚岩次郎である。
 明治22年には、靴の材料の革をすべて日本で作ることに成功した。日清戦争で大量の軍靴が必要になり、勝三は大きな利益をあげた。そして明治31年には「合資会社桜組」をつくる。35年には、桜組などの5つの靴メーカーが合同して「日本製靴株式会社」を、翌年の4月1日には「日本皮革株式会社」を発足させた。
 勝三は、さまざまな事業に手をだしたが、特に、製靴業、製革業、耐火煉瓦の製造という3つの事業で大成功をおさめ、日本の近代産業の祖といわれている。

(4)新田長次郎
 
田長次郎は、安政4年(1857)5月29日、伊予国温泉郡山西村に生まれた。生家は1町歩ほどの田畑を有する比較的恵まれた家であった。
 16歳の時、村長から福沢諭吉の『学問のすすめ』を教わり、四民平等、独立自尊の精神を学んだ。明治10年11月、長次郎は大阪の3大富豪の一人、藤田伝三郎が設立した藤田組製革所(明治10年4月設立)に職工として就職し近代的な皮革技術を学んだ。明治15年4月、東京の大倉組が大阪に進出し、製革所を設立した際に、長次郎は大倉組製革所に再就職した。
 西浜の地が近世を通じて西日本の皮革の集散地であることを承知していた長次郎は、明治17年、西浜町に近い難波村久保吉の地に自宅兼工場を購入し、翌18年3月、27歳の時に製革業を始めた。明治20年、他の3人のメンバーと共同で「匿名組合・新田組」を設立した。長次郎は当時の皮革業に対して、社会が「日本ノ現時コソ之ヲ以テ賤業ノ如ク侮蔑」(『新田長次郎履歴書』)していることを充分に認識していた。
 明治21年、長次郎は、帯革の試作に初めて成功、日本で初めて国産伝導用ベルトを作製した。西浜に近い三軒家周辺には大阪紡績などの近代企業があり、伝導用の帯革の需要があった。新田製のベルトの品質は高く、価格も輸入ものより安かったためよく売れた。明治27年日清戦争が勃発し、紡績業の大躍進に伴って新田ベルトの需要が拡大した。新田は日本の産業革命に工業用ベルトを通じて貢献したといえる。西浜の革製品のうちでも工業用ベルトの生産が7割を占め、靴がそれに次いでいた。その意味でも新田帯革製造所の存在は大きかった。新田は創業以来着実に業績を伸ばし企業規模を拡大、大阪経済への新たな効果をもたらした。
 明治39年、革なめしに必要なタンニンをとるため、北海道に進出した。タンニンは槲(かしわ)樹皮より搾り取る渋からとれた。明治42年製渋工場を建設、44年にタンニン製造を開始した。新田帯革製造所は、大阪西浜地区およびその周辺における皮革産業の頂点に達した。

☆藤田伝三郎☆
 長州の萩で造り酒屋を営んでいた伝三郎は28歳だった明治2年に大阪に出、革靴の製造に成功し、藤田組を設立、兵部省や大阪府に軍靴を納め、橋や鉄道、工場などの建設工事の請負業を始めた。
 明治10年の西南戦争では、岩崎弥太郎、大倉喜八郎らとともに稼ぎ頭となり、藤田組の基礎を固めた。その後、小坂銅山の払い下げを受け鉱山業に進出し、岡山県・児鳥湾の5千ヘクタールにおよぶ干拓に乗り出した。その他、藤田伝三郎が起こした主な事業としては、大倉組との合併による日本土木会社(現大成建設)、大阪毎日新開(現毎日新聞)、北浜銀行(現三和銀行)、汽車製造(現川崎重工)、宇治川電気(現関西電力)の設立や経営などがあげられる。「明治財界の風雲児」「関西実業界の大立物」といわれた。

☆大倉喜八郎☆
 大倉喜八郎は、1837年、越後国新発田の名主大倉千之助の三男に生まれた。17歳の時江戸へ出て鉄砲店大倉屋を開業、1873には、銀座に大倉組商会を設立、西南戦争で陸軍御用となり1878年、渋沢栄一らと東京商法会議所を設置した。藤田組との日本土木会社創設、帝国ホテルの創設、特に日露戦争後は大日本麦酒、帝国劇場、東海紙料(現東海パルプ)、日本化学工業、帝国製麻(現帝国繊維)、日本製靴(現リーガルコーポレーション)、日清製油等々近代産業の礎になる企業を数多く興し、大倉財閥を築き上げた。
 なかでも大倉組の実力がいかんなく発揮されたのは戦争で、軍需品の調達、輸送はもちろん、日露戦争では塹壕や架橋用の製材工場を鴨緑江流域に移設し、弾丸の飛び交う中で操業した。当時、危険な仕事にも応じられるのは大倉組しかないといってよく、軍事関係の需要は三井・三菱を凌いでほとんど大倉組が独占したという。

☆大阪の皮革産業☆
 嵯峨天皇の皇子で臣籍に降った源融の子孫である源綱は、源満仲の婿である源氏敦の養子となり、摂津国西成郡渡辺村に移って渡辺を称した。綱は源頼光に仕え、坂田金時、平貞道、卜部季武と共に頼光四天王の一人と称せられた。綱の子孫が摂津渡辺党で、源氏の水軍として活躍した。源頼政の挙兵を援護し、源義経が屋島の平家を撃つために四国に渡るに際して参軍した。
 近世の渡辺村は、かわた村、役人村として知られ、行刑、獄門番、消防、皮革産業の中心であった。中世の渡辺村とのつながりは不明である。戦国時代、渡辺村は、鉄砲伝来によって牛皮製となった甲冑の原料を供給し製品販売を一手に行った。
 維新後の渡辺村は西浜町と呼ばれるようになった。当時の新聞によると、
「当時の人民はなほ旧習を固守して西浜一団の人民を疎外する気風存したると、洋式皮革製造業が武士によつて創始されたる等の事情ありて、西浜の皮革業者は容易にこれを伝習する能はざりし」という有様であった。しかし、谷沢儀右衛門が西村製革場で技術を学んで明治6年に業を起こしたが、失敗した。佐々木吉五郎が梶原製革場にいた職工を雇い入れて製革場を起こすことによって製法が伝えられ、一時、多くの業者が出現したが、成功したものはわずか十数名にすぎなかった。その後、日清・日露の戦争期には軍需用として皮革の需要が伸び、西浜の皮革業はしだいに隆盛に赴いていった。



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