日本における肉食の歴史

1.縄文時代
 
文時代は基本的には狩猟採集の生活で、遺跡から出土するのは、シカ、イノシシなどの骨、蛤、牡蠣などの貝類とクルミ、クリ、トチ、ドングリなどの木の実である。狩猟採集の縄文人は主に肉を食べていた思われがちであるが、主食はドングリであったらしい。哺乳動物のなかで最も多く食用されたシカやイノシシなど大物の獲物はそんなに頻繁にはとれなかったであろうし、狩猟圧を加えすぎると獲物の数が減少するからである。
 ちなみに、一般の「常識」に反して、狩猟採集民の方が農耕牧畜民よりも食物生産に費やす時間は少なく豊かな生活をしていたのである。

2.弥生時代
 
生時代といえば稲作である。しかし、米は主食ではなかったし、当然のことだが、米だけを食べていたわけでは全くない。弥生時代の遺跡からは農具のほかに、狩猟具や漁具、たくさんのシカ、イノシシなどの獣骨が見つかっている。犬は番犬・猟犬もいたし、食用犬もいた。ちなみに柴犬は中国の食用犬チャウチャウと近縁品種である。

3.古墳時代
 
墳時代の家畜は、ウマ、ウシ、イヌ、ブタ、ニワトリなどであった。このうち、ブタは食用以外考えられない。

4.飛鳥・奈良時代
 
原京遺跡から出土の木簡に「信濃の国伊那の評鹿大贄」とある。これは、700年前後に信州伊那から藤原京にシカ肉が宮廷の祭事や、天皇の食前に献上されていたことをしめしている。
 『日本書紀』にある「猪甘津(いかいつ)の橋」は文献上日本最古の橋であるが、「猪甘」は、猪飼・猪養と同意で、朝廷に献上する猪を飼育していた猪飼部の住居地だったと考えられている。「猪」は、野生のイノシシではなく、渡来人が大陸から持ち込んだブタである。万葉集には猪養山という地名がでてくるし、新撰姓氏録にも猪甘首の名が見える。ブタの飼育者と養豚場があったのである。
 元明天皇の和銅6年(713)8月、新羅より帰国した道君首名は、初代筑後の守として赴任し、民の生業や耕種に励み莱果の栽培、鶏や豚を養うことを指導し、溜池を掘り灌漑の便を計った。

 
とは古代において牛馬を放牧した施設である。『日本書紀』天智7年(668)7月条に、牧を置いてウマを放ったことが見え、『続日本紀』文武4年(700)3月条に諸国をして牧地を定め牛馬を放たせたとある。古くから牛馬放牧施設はつくられ、牛馬の繁殖・育成にあたっていたが、制度的に整えられるのは大宝令の規定によってである。全国の牧は兵部省管下の兵馬司が司り、その管掌下で諸国司、後には牧監が管内の牧を管理し、牧には牧長、牧帳、牧子がおかれた。牧子が牧経営の実務に従事することになっていた。牧監には職田が給され、牧の経営の生活基盤として多数の民が農耕生活をしていた。牧馬の用途は、乗用に耐えるものは当国の軍団に給付して軍馬とし、ほかは牧内で雑用に使役したり、民間に払い下げていたらしい。大宝令には「死亡牛馬処理」に関する項があって、それには「官有牛馬が乗用あるいは使役中に死亡または病死した場合は、皮肉はその役所で売却して公の費用に充てよ」の旨が書かれていた。

 
鳥時代に国家鎮護の法として仏教が伝来すると、朝廷は殺生を固く禁じるようになった。676年(天武天皇4年) 4月17日の肉食禁止の詔は、ウシ・ウマ・イヌ・ニワトリ・サルの五畜の肉食を禁じている。その理由は「犬は夜吠えて番犬の役に立ち、鶏は暁を告げて人々を起こし、牛は田畑を耕すのに疲れ、馬は人を乗せて旅や戦いに働き、猿は人に類似しているので食べてはならない」という『涅槃経』の教えによったものらしい。
 しかし、この『肉食禁止令』は毎年4月から9月までの農耕期間に期間が限られており、また具体的に禁じられたのは五畜に限られている。さらに、重要なのは、禁止する詔が出たと言うことは社会の現実として禁止されるべき行為が行われていたということである。
 牛馬は農耕の大切な労働力。サルは人間に最も近い動物である。しかも、当時これら動物以上によく食べられた、シカやイノシシは禁止肉食に入っていない。シカやイノシシは、普通の食べものだったからか、あるいは農業にとって害獣だったからであろうか。

5.平安時代
 
安朝初期の嵯峨天皇の頃の記録に「本日の豊明は漢方を似てす」とある。日本に帰ってきた留学僧を招いての宮中の豊明は中華料理スタイルだった。一番肉を食ってはいけないはずの僧を招いての宴会においてすら肉を出しているのであるから、肉食をそれほど気にしていないことがわかる。
 延暦23年(804)10月の桓武天皇の和泉行幸のとき恵美原・城野・垣田野・藺生野・日根野・熊取野で遊猟が続けられ、遊猟の盛んな桓武朝でも最大の規模であった。
 神や天皇に捧げる食料はニヘ(贄)と称される。山の幸もまたニヘである。シカ・イノシシ・キジなどの鳥獣の肉が御贄として天皇の献立とされていた。また、古代ではその地の産物を食べることが、その地を治めることと同義で、狩猟には山野の領有を確認する祭祀の側面がある。つまり海の幸・山の幸がそろって御贄である。

6.中世(鎌倉・南北朝・室町・戦国・安土桃山)
 
1487年に成立した『神祇道服忌令秘抄』では「四足物食用之事。鹿猪猿狐里犬ハ七十日憚之。合火ハ五十日。又合火ハ卅日也。此日限神社へ參詣スベカラズ。」とある。これも、裏を返せば70日を経過すれば神社に参詣してもよいことになる。
 『庭訓往来』に「豕焼皮」という脂肪がのったイノシシの皮を焼いた料理が出てくる。戦国時代には焼き肉が登場した。足軽が非常食として農家からウシを強奪してきて、味噌で味付けをして鉄板で焼いて食べた。室町末期から寛永16年の鎖国が布告されるまでの100年間は諸外国との交流が割合に多く、室町将軍、織田信長、豊臣秀吉などは好んで南蛮料理を口にしていた。イエズス会士ジャン・クラッセの『日本西教史』(1689年)に「富者は尤も美食に誇り、其食卓に肉菜を堆かく盛り立て、恰もエジプトのピラミッドのごとし。また肉叉、匙、小刀を用ひず、唯箸を用ひて肉叉に代ふ」とある。
 南蛮貿易が盛んになると、自然に西洋料理も入ってくる。肉食の風が輸入され、キリシタン大名のあいだで流行した。宣教師がウシやウマの肉を食べていたためか、九州を中心に肉食が普及した。
 織田信長が徳川家康を招待し、そのまかないを明智光秀が務めたときの献立が残されているが、鴨汁、青鷺汁、たけのこと白鳥、鴫の羽盛りなど鳥類のメニューが目につく。
 秀吉の小田原攻めの際には、キリシタン大名の高山右近が蒲生氏郷や細川忠興と牛肉を食べた話がある。松永貞徳は、その著『慰草』(慶安5年)の中で、「キリシタンの日本に入りし頃は京衆牛肉をワカと号してもてはやせリ」と書いています。当時は牛肉のことをワカとよんでいる。ワカはポルトガル語のVaca(ウシ)である。
 当時の外国人の日記には、日本人を招待したり、日本人に洋風料理を贈っている記事が見えており、たとえば、平戸の大名松浦鎮信は、イギリス船長から胡椒をかけた牛肉や、カブ、ニンジン、ネギと煮た豚肉、白パン、ブドウ酒、ローストポーク、ビスケットなどを贈られている(慶長18年)。しかし、豊臣秀吉の「バテレン追放令」と共に禁止となった。

『庭訓往来』:14世紀中ごろ(南北朝時代)より19世紀後半(明治初期)に至る5世紀のあいだ、広く学ばれ流布した往来物(教科書)。著者に南北朝時代の学僧玄慧をあてる伝えがあるが確証を欠く。

『日本西教史』:1689年、翻訳版1880年(明治13)イエズス会士クラッセの『日本教会史』を明治になって鮫島直信が持ち帰り、太政官が翻訳した。日本に関する内容と日本での布教及び迫害の歴史を記す。

『慰草』:松永貞徳による慶長八年頃徒然草講釈、慶長の頃の見聞・逸話に富んでいる。

7.近世(江戸)
 
戸時代になっても、多くの人が獣肉を食べていた。当時の『料理物語』によると、シカは汁、煎焼、イノシシは汁に田楽、そしてウサギ、タヌキ、クマ、カワウソ、イヌなどを汁や、貝焼、田楽にして喰っている。「町方に於いて、イヌと申すものは稀にて、見当り不レ申事に候。武家町家ともに、しもじもの給物には、イヌにまさりたるものは之なしとて、冬向に成候えば、見合次第打殺し、賞翫致すについての儀なり」『落穂集』。

 
化・文政頃になると、オランダ医学の輸入で、肉食が体によいことが知られたことなどから、「ももんじい屋」が現れる。そこでは、イノシシ、シカ、クマ、オオカミ、キツネ、タヌキ、サル、カワウソ等が売られていたという。おおっぴらには肉食が認められていないのにもかかわらず、現在のようにウシ、ブタ、トリばかりを食べているよりも、ずっと多種の肉を食べていたことになる。
 『松屋筆記』に「文化・文政年間より以来、江戸に獣肉を売る店多く、高家近侍の士も、これをくろう者あり、イノシシ肉を山鯨と称し、シカ肉を紅葉と称す。クマ、オオカミ、タヌキ、いたち、きねずみ、サルなどの類獣店に満ちて、其処をすぐるにたへず、またガマをくろう者ありき、いずれも蘭学者流に起これる弊風なり。かくて江戸の家屋は不浄充満し、祝融の怒り(火災)に逢うことあまたたびなり、哀むべし、嘆くべし」と記されていているように、肉食は不浄だという考えから、江戸の大火さえ肉食のせいにされた。
 十四代将軍家茂時代の記録には「鳥は鶉(うずら)、雁の外一切用ひず、獣肉は兔の外一切用ひず。」とある。今でもウサギを一羽、二羽と数えるのは、ウサギを「鳥の仲間で獣肉ではない」として食べていたからともいわれる。しかし、現実には天明から嘉永にかけて、彦根城主から将軍へ、寒中見舞として牛肉の味噌漬が樽で献上されていたとの記録が残されている。

 
山市教育委員が行った岡山城の発掘調査によると、二の丸から出土したほ乳類には、イノシシ、ブタ、ウシ、ノウサギ、タヌキ、イヌ、オオカミ、アナクマなどで、人の食用になった可能性が高い。そこは家老屋敷、上流武士の居住区であったので、その屋敷内の住人の食料であったと考えられる。家老クラスの屋敷内から、イヌをはじめ、多くの獣骨が出土し、彼らが肉食を楽しんでいたことがわかる。

『料理物語』著者不明、江戸時代初期の代表的な料理書。料理材料や調理法を簡潔ではあるが具体的に書いたものとしては最も古い。

『落穂集』大道寺友山 著、徳川幕府初期の江戸城および市中の普請、武家の制度、風俗、世情のことなどを問答体にて記している。

『松屋筆記』小山田与清 著、見聞や、事物の考説をまとめたもの。全 120巻。

8.近代
 
食が解禁されたのは、1871(明治4)年のことである。西欧列強との外交のため、明治政府はフランス料理を宮中の正式料理に採用した。1872(明治5)年1月24日、明治天皇が宮中で自ら牛肉を食べて国民に示した。明治天皇が率先垂範して牛肉料理を食べてから、文明開化のシンボルとして牛なべ屋が大繁盛した。
 右大臣岩倉具視は部下の1人に西洋料理専門店を開店させた。この店が現在も続いている精養軒である。

9.神道と肉食
 
般の常識では、神道は、獣肉を食べることを穢れとして忌避したというが、神道は元来、肉食を禁ずるということはないらしい。奈良時代以降に広まった仏教の不殺生という戒律の影響などにより、獣肉の食用が嫌われるようになったという。
 幣帛とは神に奉献するものの総称である。布帛から衣服類、神類、玉、武器、銭貨、器物、神馬をはじめとする鳥獣も幣帛であった。諏訪大社の御頭祭(おんとうさい)では神にシカ肉を捧げ、宮崎県・銀鏡神社例祭ではイノシシ肉を供えるという。(神社新報 『神道いろは』第二五六六号)
 また、島根県の式内社である大祭天石門彦神社では、特殊神事に贄狩祭というものがあり、現在でも、イノシシの肉を献じるというが、昔はシカを捕らえて供物にしていたらしい。
 祝詞には神への捧げものを列挙している(『延喜式』祝詞 廣瀬大忌祭)。山に住むものは「毛の柔物・毛の荒物=鳥獣」、大野の原に生うものは「甘菜・辛菜=蔬菜」、青海原に住むものは「鰭の広物・鰭の狭物」、「奥つ藻菜・辺つ藻菜=水産物」

10.神話に見る肉食
 
事記に、「速須佐之男命は、天照大御神に勝ったことにうかれ、田の畔を壊し、溝を埋め、神殿に糞尿をまき散らかした。天照大御神は神の衣を織る神聖な建物に座って、御神に献上する衣を織らせているとき、須佐之男命はその建物に穴を開けて天の斑馬を尾のほうから皮を剥いで落とし入れた、それをみて天の服織女(はたおりめ)が驚いて、梭で陰部を突いて死んでしまった。」とある。
また、祝詞には天津罪国津罪というのがある。天津罪には、畦放ち(あはなち)、溝埋め、樋放ち、といった水田を荒らす行為と並んで、串刺し、生剥ぎ、逆剥ぎがあげられ、国津罪には、生膚断、死膚断、畜仆し(けものたおし)、などがある。これから類推すると、肉食は農耕に悪害をもたらすと考えられたようである。
 しかし、『古語拾遺』に御歳神の由緒についての次のような記載がある。
 神代、大地の神の大地主神が田をつくったとき、農夫に牛肉を食べさせ、大国魂神がそれを大歳神に伝えた。すると大歳神は怒って蝗を田に放ち、苗が枯れてしまう。この祟りを鎮めるために白イノシシ・白馬・白鶏を献じると、大歳神は「麻の幹で糸巻道具のカセをつくって蝗を巻きとり、麻の葉で払い、烏扇であおげ」と託宣した。それでも蝗が出て行かなければ、「牛肉と男茎の形代を用水の溝口におき、ハトムギ、ハジカミ、クルミの葉と塩を畔にまけ」という。その通りにすると苗の葉がまた茂って豊作になった。
 これによると、牛肉を食べることは神の怒りをかう一方、牛肉は蝗(いなご)を払う呪物となるらしい。郭沫若はいう「上帝は天子が生み出したもので、上帝の聖旨とは、その実、天子の意思に他ならない。上帝は人間と同じように食うことを欲し、なかでも牛肉を食うことを最も喜んだ。そのことから、我々は上帝が牧畜時代に生まれたに相違ないと考えることが出来る。」と。(『支那古代社会史論』藤枝丈夫訳1931)そうであるなら、牛肉を用いた蝗を払うこの稲作儀礼は獣肉を食っていた時代の宗教儀礼だと考えられる。しかし、それが弥生時代の人々の宗教なのか、稲作を携えて渡来してきた江南の民のそれなのかはわからない。
 原田信男氏によれば、日本においては、もともと稲作と動物の肉とは対立するものではなく、動物の神への供犠は農耕の推進につながるとされていた。それが律令体制という中央集権的国家建設の過程で稲作に害をなすものとの思想に転換したという。
歴史のなかの米と肉―食物と天皇・差別』平凡社選書

11.山間部における肉食の継続
 
間部においてはイノシシやシカなどがずっと食用にされていた。椎葉村では今でも伝統的な狩猟儀礼が伝えられている。猟を行う際、あるいは獲物を解体する際に行う様々な神祭りの作法があり狩猟文化の残影をみることが出来る。山の神、コウザキ、火の神、夷(エビス)、大黒などに獲物の肉片を丁寧に捧げ神々に感謝し、そして、獲物の霊を慰めてからシシ肉を食する。

 「明治以前の日本社会は全国的に獣肉食に対する強いタブーがあった。ようやく明治維新によって、奈良時代以降行われていなかった肉食が解禁された。」と言う一般的な理解は修正されねばならないようである。



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