米は日本人の主食ではない

1.米が日本人の主食になったのはいつか
 
が日本人の主食になった時期について、時代的に大きくかけ離れた二つの説が存在する。
(1)弥生時代説
 縄文時代の終わり頃、日本に稲作が伝わった。弥生時代には、全国に広がり、各地に稲作を中心とした村ができ、国家が形成された。それ以後、日本人は稲作を生活の基盤としてきた。日本の歴史は、米の歴史なのである。
(2)第2次世界大戦後説
 第2次世界大戦以前は、麦・ひえ・あわなどの雑穀に、米2〜3割をまぜたごはんを食べていた。その他、そば・いも・とうもろこし・大根・豆類などを主な食糧にしていたのである。さらに、戦争で食料が足りなくなり、戦後の混乱期には深刻な食糧不足となった。ようやく1960年代に干拓事業で米の増産が成功して米が大量生産できるようになった頃には、パン食の普及などによって、主食としての米の地位が低下し、米余り現象が始まっていた。つまり、米が主食であったのは存外に短く、戦後の混乱期を過ぎた頃から最近までの数十年に過ぎないのである。
参考:亀田製菓

2.享保の改革における「五公五民」の怪
 
保の改革とは、江戸幕府八代将軍吉宗が行った幕政改革である。後に行われた、寛政の改革、天保の改革と並ぶ江戸時代の三大改革の一つである。この改革では、年貢を五公五民に引き上げ、豊凶に関わらず一定の額を徴収することとし、新田開発を行って米の増産を図った。
 さて、この「五公五民」というのが不思議な数字なのである。「五公五民」とは、米の生産者である百姓の取り分が5割、支配者である武士の取り分が5割という事である。武士は自分たちが食べる分以外の米を市場で売って生活していたという。すると武士が売った米は武士でも百姓でもない者が買ったことになる。さて、江戸時代日本の人口の8割強が農民である。ちなみに武士は7%程であった。「五公五民」が本当なら、米の全収穫の半分を2割に満たない者が食い、残りの半分を8割強の人間が食ったことになる。
 以上のことから以下の仮説が考えられる。
(1)江戸時代の殆どの日本人の主食は米である。年貢が「五公五民」であったというのは嘘で、実際は「一公四民」くらいであった。すなわち百姓達はお上に対して収穫高を偽っていたのである。
(2)江戸時代の大多数の日本人の主食は米ではない。米を主食にしていたのは一部の特権階級だけであった。米の全収穫量の5割をこれら特権階級が主食として食っていた。それ以外の5割を百姓が副食として食っていた。その場合、百姓が主食としていた食糧を1とした場合、米の比率は0.25くらいになる。

3.脚気と米
 
戸時代、米を主食にしていた者には、ビタミンB1不足による脚気が蔓延していた。脚気は田舎では起こらず江戸に多かったという。そのため脚気は別名「江戸患い」とも呼ばれた。江戸幕府の将軍のなかにも脚気で死亡した人もいたという。権力者の食事内容は記録されていることもあるが、庶民がどのようなものを食べていたのかは、推定するしかない。江戸時代までは一部の人をのぞいて、たとえ米を食べることがあっても白米ではなく玄米で、おそらくは、米以外の麦などの雑穀を食べることが多かったのではなかろうか。
 ところが、明治時代に入ってから、一般庶民でも脚気にかかる者が出てきた。これは軍隊において白米が主食になっていたからである。明治政府は、円滑な徴兵のために「兵隊になれば白米が食えるぞ」といって宣伝した。それくらい白米の飯は、庶民にとって高嶺の花であった。
 白米を主食とした日本軍は、脚気による多数の死亡者を出した。後に海軍軍医総監となる高木兼寛は、脚気が西欧になく日本の軍隊にあるのは食事が原因ではないかと考えた。そして、兵に白米ではなくパン、後に麦飯を中心とした食事をあたえれば脚気にはかからないことを証明した。その結果、海軍では脚気患者はほとんど見られなくなった。ところが陸軍軍医総監となる森鴎外は、脚気の原因は細菌であるとの説を主張し、頑固に麦飯の効果を否定し続けた。その結果、陸軍では日露戦争において25万人もの脚気患者を出し27800人の兵士の命を脚気によって奪う結果となった。そして、鈴木梅太郎が米糠の中から脚気予防に効果のあるオリザニン(ビタミンB1)を発見するまで死者が相次いだのである。

4.米は食糧ではない?
 
化の改新後、班田収授の法によって人民にあたえられた土地を口分田という。6歳以上の男子には田2反(約23a)、女子にはその3分の2、私有の奴婢には良民の3分の1の土地が支給され、死後は国に返した。口分田を支給された者は租として、収穫の3〜5%のイネをおさめた。
 平成15年では1ヘクタールあたり4.7トン、昭和元年では1ヘクタールあたり2.7トンの収穫量であったという(農林水産省「消費者の部屋」)。班田収授の法が行われた時代、仮に昭和元年並の収穫量だとすると、23aの田から約0.7トンの収穫量がある事になり租を納めたとしても十分に米を主食に出来ることになる。しかし、実際には当時の日本には全ての人民に分け与えるだけの耕地は開かれていなかったらしい。さらに、昭和元年並の収穫効率があったとはとても考えられない。第一、江戸時代でさえ国民全員が主食に出来なかった米を古代に主食に出来たとは思えない。おそらく、獣肉や雑穀を多く食していたのであろう。だからこそ、幾度となく五畜の肉を食べてはならぬ旨の禁令が出されたのだと考えられる。

5.神聖にして侵すべからず
 
は「租」とされ国庫に入れられた。国庫に入れられた米は別に宮廷の官人達が食べるためではなく、様々な物と交換されたり労働の対価として支払われたであろう。すなわち米は貨幣である。江戸時代に大名の富、権力、地位を示すのに、領地からとれる米の収穫高をもって「〜何万石」といった表現が使われた。金本位制ならぬ米本位制が採られていたのである。米こそ価値の基準であった。
 筆者は弥生時代の集落の高床式建物の一部は住居であったと思うが、一般には全て高床式倉庫であったのだという。人が地面に穴を掘って住んでいたときに、「お米様」は、湿気か来ず、ネズミにもかじられず、千木や鰹木で飾られた神殿みたいな建物に納められていたというのであるから、米は「神聖にして侵すべからざる」存在として認識されていたことになる。さらに、「昔話」でも餅を的にして矢を放った長者が、その罰で没落した話などがあるが、これなども「餅=米」を粗末にしたばかりに「米=神」の罰が当たったと解することが出来る。中年以上の人なら誰でも一度くらいは、祖父母などから「一粒の米を粗末にした罰として目が潰れてしまった人」の話を聞いたことがあるはずである。米以外でも年輩の方などは「物を大切にしなさい」と言う、しかし「目が潰れる」のは米を粗末にした時に限ってのことであって、決して麦や粟やヒエや大根を粗末にしても大丈夫なのである。単に経済的価値だけなら、麦十粒を粗末にした時には目が潰れるとか、米半粒なら大丈夫とかいっても良さそうなものであるが?
 日本人にとって、米は単なる食べ物ではない、神聖であって、粗末にした日には目までつぶすほどの霊力を持つ物であり、それ故に貨幣として全ての価値基準にさえなったのである。天照大御神が天孫ニニギノミコトを豊葦原瑞穂国に降臨せしめた時、稲穂を渡し「これを日本人の主食としなさい」といったという神話がある。「日本人」(弥生人から現代人)の歴史は「米を主食にしたいと願い続けた歴史」であったともいえるのである。



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