葬儀屋考

世界葬儀連盟
 今から約20年前アメリカのラスベガスで聞いた面白い話がある。現地で観光ガイドをやっている日系人のSさんは、ある時、日本の葬儀屋さん達を案内するため、あるホテルの賭博場を予約していた。出かけてみると予約したはずなのに他の団体がスロットマシンをやっていた。そこでSさんはそのカジノの従業員に文句を言った。ところが、相手が「逆ギレ」して、Sさんをカジノの奥まった部屋へ無理矢理連れて行ったという。真っ赤な絨毯を敷き詰めた廊下の突き当たりにその部屋はあった。Sさんはその時「殺されることを覚悟した」という。ホテルとカジノの経営者は全く別で、カジノの方は100%マフィアの経営であるからだ。最後のあがきで、Sさんは堂々と自分の主張をした。予約を勝手に反古にしたそちらに非があるではないか、と。「誰を連れてきたんだ」と聞かれて、「国際葬儀連盟の総会に参加するために、日本から来た客だ」とこたえると、相手の形相が一変し、「それはこちらが悪かった」といって急に平身低頭の態度になったという。Sさんはあとでその理由を知ることになる。当時の全米マフィアの大幹部がくだんの連盟の会長だったというのだ。「あのとき私を殺したりしていたら、カジノを任されていたあの男も生きてはいられなかったでしょうね」とSさんは笑いながら話してくれた。国際葬儀連盟などというと「ホンマにそんな組織あるんかいな」と思われる向きもあると思うが、実在する、おおまともな組織である。
 人生行路の節目には冠婚葬祭という大きなセレモニーがある。大人として認められる儀式、結婚して家庭を持つ儀式、そして人生最大の儀式とも言われる、あの世への門出の儀式、そして先祖をまつる儀式である。人生最大の儀式を取り仕切ってくれる人たちのことをいまでは「葬儀屋」というが、巷間あまり好まれない職業である。

儒者のお仕事
 さて、相撲でよく「品格」がどうのこうのといって問題にされるが、日本人の倫理観・道徳観・政治観に多大な影響を与え、日本人の倫理・道徳に関する物差しとなっているものは「儒教」の教えである。実は儒教の教えを奉じ社会を教化する人、すなわち儒者は、春秋・戦国時代には事実上の葬儀屋であったという。人が死ぬと、その人の家に儒学者がやってきて葬儀をとりしきり、詩経の朗唱などを行ったのである。儒教の祖孔子は幼少ころ葬儀に使う「祭器」や「お膳」などでよく葬式ごっこをして遊んでいたという。『礼記』には孔子の葬儀や意見が出てくる。そのなかで孔子は、「死は民の卒事なり」(死は人生最後の一大事である)といっている。「儒教こそ葬儀を重視し、見事に体系化しているのである。葬送儀礼をぬきにして、儒教は存在しえない」(加地信行『儒教とは何か』中公新書)。このように儒教は葬儀と祖先崇拝を重視し、儀礼的に体系づけたのである。
 孔子の学派が儒家と呼ばれていたのは、孔子が儒の集団の出身だったからである。孔子の母顔徴在の一族が儒であったらしい。「儒」と呼ばれた職業集団は、葬式があると雇われていって、葬儀に関する一切の儀式を取り仕切り、実務を執り行った。「儒」のもととなったのは、雨乞いをする巫祝「需」であるらしい。つまり「儒」は葬儀にたずさわる巫祝である。
 孔子は「儒」の実務を通じて民間の儀式に関する知識を得ると同時に、魯国に伝わる周王朝の祭礼儀式(「周礼」)を学び取っていた。これがすなわち「吾十有五而志于學」である。余談だが、漢の高祖劉邦のライバルであった楚の名族出身の項羽も、当時、現在の蘇州で伯父と一緒に葬儀屋をやっていた。

天神様のご先祖
 実は封じ込められた怨霊なのだが、今では学問の神様となった菅原道真公を知らないものはいないと思うが、その先祖「野見宿禰」を知るものは少ない。野見宿禰は出雲の国の出身で、垂仁天皇に召されて大和の国の力自慢であった当麻蹶速と相撲を取って相手を蹴り殺して勝ち、その後朝廷に使えたという「相撲の神様」である。野見宿禰は、殉死に替る方法として埴輪を提案したのがきっかけで、土師部を統帥する土師氏の姓を与えられ、天皇家の葬儀一切を取り仕切るようになったという。
 ところが、菅原道真の祖父らが土師氏の姓を居住地に因んで菅原氏に改姓して頂きたいと天皇に上申した。野見宿禰に発する氏族伝来の業務は本来吉凶相半ばしていたが、現在は凶儀のみに関わるっている。今のままでは祖業の本旨にも背くものである、という理由である。申請どおりに改姓が許可されている。
 巨大な墳墓の造営は、朝廷や貴族の威信をかけた壮大な土木工事であり、ハレの事業であった。ところが、仏教の受容と火葬の開始により、そのような舞台は消滅した。同時に、朝廷では、あらゆる凶事を忌み避ける風が次第強くなっていった。そこでこの改姓嘆願となったのであろうと思われる。

 時代と地域によってかくも価値観は変遷するのである。ただし人間の基本は変わらない。欲望や興味の対象が変わるだけである。



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