蝦夷(エミシ)と蝦夷(エゾ)は違うのか

 以前、同じようなことを書いたが改めて書く。古代の蝦夷(エミシ)と中世以降の蝦夷(エゾ)は字は同じでもその実態は違うなどと言う妄説があたかも不動の通説のようにまかり通っている。しかし以下の事実をどう考えればよいのか。
 縄文遺跡は日本列島に広く分布している。特に東日本や東北地方に多い。そして北海道にも多くの縄文遺跡がある。そして西日本さらには東日本へと弥生文化が広がっていった。しかし、ついに北海道に及ぶことはなく、北海道には続縄文文化と呼ばれる文化が縄文文化を断絶なく引き継いでいった。このことを案外知らない日本人は多い。
 大和朝廷支配下の人民と蝦夷(エミシ)とは通訳を介さなければ話も出来ず、たまたま「夷語」がはなせる百姓がそれを利用して悪さをしたという話まで「正史(続日本紀)」に記載されているのである。
 唐の使者が我が国を訪れたときの歓迎式典には、一般の儀仗兵のほかに隼人や蝦夷(エミシ)も儀仗兵として参加させられている。さらに、遣唐使が唐の皇帝に見せるためだけのために蝦夷をわざわざ大陸にまで万里の波濤を越えて連れて行っている。朝廷は多民族を支配していることを外国に示したかったのであろうが、これは蝦夷の人々が一見しただけで大和朝廷の支配下の人々とは人種民族が異なることが分かったためだと思われる。
 そもそも、全く異なる民族になぜ同じ蝦夷という字を当てねばならないのであろうか。古代東北には蝦夷の他に粛鎮(みしはせ)という種族が記録されており、さらに阿倍比羅夫は渡島の蝦夷と共同で粛鎮を討ったという記録も正史に記載されている事実をどう考えるのか。渡島とは今の北海道の渡島半島と思うのが素直であるが、まあ、都合が悪いと「物的証拠がない」から史書の記述は信じられないとでも言うのであろう。しかし、すくなくともこの記述から見れば、異なる民族にわざわざ同じ字を当てることはないはずなのである。
 「エミシとエゾは違う」と言い募る人々は、どうしてそんなに「自分たちはエゾ=アイヌとは関係ないのだ」と言いたいのだろうか、筆者は不思議でたまらない。

赤坂憲雄『東西/南北考―いくつもの日本へ』、岩波新書
 ここにはおそらく、古代蝦夷はアイヌ系か和人系か、という古くからの問いが、微妙な影を落としている。東北は古代の植民地である。ヤマト王権による「征討」の記憶は今もなお、東北に生きる人々の上に精神的な外傷となって覆いかぶさっている。言葉を換えれば、東北の種族=文化的な出自をめぐって、東/西の軸に沿って語るか(→蝦夷倭人説)、南/北の方位に開きつつ語るか(→蝦夷アイヌ説)、という対峙の構図が存在するのである。しかも、それは明らかには意識されぬままに、東北の人々を呪縛している。
 古代蝦夷の世界が解き明かされることなく、曖昧に捨て置かれているかぎり、精神的トラウマが癒されることはありえない。『雪国の春』の柳田国男が語ったように、東北のいまに生きる人々がみな、稲を携えて北へ、北へと移住をくりかえした「中世のなつかしい移民史」を共有しているのであれば、いわば、東北人が残らず蝦夷以後の、西からの移民=植民者たちの末裔であるならば、精神のねじれは解きほぐしやすい。しかし、こと北東北については、そうした仮定を支えるに足る現実的な根拠は認められない。蝦夷系の人々がことごとく滅亡し、あるいは北海道に撤退したあとに、和人が大挙して移り住んだといった形跡はない、ということだ。むしろ逆に、岩手などではいまだに、蝦夷の末裔としての誇りを子や孫に語り継ごうという人々が、けっして稀ではない。



このボタンを押すとアドレスだけが記された白紙メールが私のところに届きます。


目次に戻る

表紙に戻る