「陶祖」李参平の子孫はどこに行った 追記:李参平の子孫は存在していました。詳しくはこのページの最後をご覧下さい。 |
有名な有田焼の産地、佐賀県有田町に陶祖神社がある。祀られているのは日本に磁器の製法を伝え有田の地で初めて磁器を焼いた「陶祖 李参平」である。豊臣秀吉の「朝鮮出兵」の際に朝鮮半島から我が国に「渡来」し、磁器の原料であるカオリンを求め歩き、有田の地でそれを発見してそこで我が国初の磁器を焼いたのである。それまで日本では、肌が白くて薄手の焼き物である白磁を製産することは出来なかった。李参平は一族郎党を皆引き連れて渡来したため、それ以後朝鮮半島における白磁の伝統は途絶えてしまったという。また「伊万里」というのは有田焼を伊万里の港から輸出したため起こった名で、焼かれたのは有田である。今でも有田の町は磁器の生産と販売を中心とした町である、春の連休には「陶器市」が開かれ全国から買い物客が訪れる。そのときには、普段は陶器販売店ではないところも一時的に衣替えをし、町中が陶器販売一色になってしまう。
有田には数多くの窯元があり、人間国宝の店やら、宮内庁御用達の店やらがひしめき合っている。ところが、不思議なことに「陶祖」と仰がれ神様にまでなっている李参平の子孫が見あたらない。李が引き連れてきたという一族郎党の子孫と名乗る窯元も知らない。磁器の製作には高度の技術と熟練とが必要で、今でも一子相伝の秘術も存在しているぐらいである。焼成の温度も今なら科学的に測定可能であるが、昔は炎の色とかで判断していたのである。ヨーロッパが中国産の磁器をまねて自前で磁器を製産するためにいかに苦心を重ねたかということが歴史に残っている。轆轤の回し方から、絵付けの方法、絵の具の調合、釉薬の組成、何から何までが実に高等技術であり、近代に至るまで秘法や家伝として伝えられてきたものばかりと言っても過言ではない。そのような技術を「当時の百姓が農業の片手間に李さんの陶芸教室で習ってきて、自分で窯を開き、さらには農業までやめてかかって有田焼を焼いた」などと言われても到底信じられることではない。要するに李参平とその一族郎党の子孫が「昔からの日本人」になったと考えるしかないのである。その傍証として、沈寿官などの薩摩焼きの職人も同じく朝鮮出兵の際に薩摩藩に渡来した人々の子孫で、代々の薩摩藩主がその異国趣味からか従来通りの姓名を名乗らせ風俗も従来通りにしてある苗代川という地域に居住させ、武士の待遇を与えていたことがあげられる。ちなみに、戦前の外務大臣でA級戦犯として禁固20年の判決を受け服役中に病死した東郷茂徳もここの出身で本来の姓は「朴」である。
言うまでもないことだが、有田の窯元や商人達は地元の名士であり佐賀県、果ては日本の名士でもある。このように「昔からの日本人」になって地元のみならず日本中の有力者や名士になった朝鮮半島や中国出身者は有田の他にも多いはずである。
追記:先日、なんと陶祖李参平窯の十四代金ヶ江三兵衛(本名 省平)様から直接大変丁寧なメールをいただいた。それによると、
「三年ほど前に十四代を襲名し、今年に入ってから佐賀県・有田町の皆様と駐福岡大韓民国総領事様のおかげで初代に縁のある「陶山神社」のお膝元に作品ギャラリーを開く運びとなりました。」とのことである。
また以下のようなご教示もいただくことが出来た。
「李参平は明治十九年につけられた通称で、正式な名称は「金ヶ江三兵衛」となります。この『金ヶ江』は姓を改め帰化し、日本人と結婚・馴染む・同化を望んでいた証でもあると考えています。そして敢えて公言をしてこなかった理由もそこにあると考えています。」
さらに、十四代は、有田町の名窯のほとんどが朝鮮系であることもハッキリと認められていた。李参平窯のますますの発展を祈念するものである。
2008.9.7
追記:横浜市のお住まいの友廣肇より「東郷茂徳は、A級戦犯で処刑ではなく、禁固20年で服役中に病死したというのが正しい」とのご指摘を受けました。そのように訂正させていただきました。筆者の知識不足を恥じております。友廣様ありがとうございました。
2009.3.17