肥前国一宮「與止日女(よどひめ)神社」
1.はじめに
国ごとの最上位の神社を一の宮という。肥前国(佐賀県+長崎県本土)には千栗八幡宮と與止日女神社の二つの一宮がある。與止日女神社の祭神は記紀にも登場しないマイナーな神で記録や伝承も極めて僅かである。
2.與止日女命は佐賀県固有の神
欽明天皇25年(564年)に創祀され、延喜式にその名が見られる。「全国神社名鑑」に収載された神社のうち鎌倉幕府以前に創祀の神社は63社、そのうち與止日女命を祭るものは7社(11%)、平安京遷都前では50社のうち6社(12%)、日本書紀完成前では45社のうち6社(13%)であった。このように年代を遡るほど割合が増えることから、與止日女命が古代佐賀における中心的な神であったことが推測される。
3.肥前国風土記の伝承
『肥前国風土記・佐嘉郡』に、「郡の西に川があって、佐嘉川という。この川上に荒ぶる神がいて、往来する人の半分を生かし、半分を殺す。県主の祖、大荒田が土蜘蛛の大山田女、狭山田女に神意を問うたところ、下田村の土で人形・馬形につくり、神を祭れば必ずやわらぐといい、その通りにするとやわらいだ。川上に石神があり、名を世田姫(よたひめ)という。海の神がいつも流れに逆らって上ってきて、石神のところに来るときに、海の小魚もしたがって来る。人はこの魚を畏めば災いなく、食べれば死ぬことあり、云々」とある。
神社近くの下田山には、17個の巨石が点在し、このうち造化大明神と呼ばれる巨石は與止日女神社の奥宮であるとされ、世田姫が祀られている。與止日女の本来の神体は磐座(神が宿るとされる岩石)であるらしい。
4.神社の持つ一般的性質
日本列島に渡来してきた弥生人たちと先住民である縄文人たちが抗争、融合を繰り返し現代日本人の祖先が形成された。記紀神話は、天孫族が国津神や荒ぶる神を征服したと伝えているが、国津神を縄文系の神、天津神を弥生系の神として理解する立場が有力である。このように神道は縄文、弥生、古墳時代以降のさまざまな文化の習合を通じて次第に成立していったと考えられる。
さて、怨霊の祟りを恐れて敗者の霊を祭るのは古代の日本人の信仰であるという。そして、怨霊鎮魂の最良の方法は、子孫による祭祀である。しかし、大多数の民衆にとって自然の脅威こそが恐ろしい存在であった。神社は自然の脅威や怨霊など人間の力では如何ともしがたい存在を封じ込めるためにあるのである。こう考えたとき「触らぬ神に祟りなし」という諺の意味も理解出来る。
5.與止日女神社の正体
神名は明らかに女性であるが、千木の先端が垂直で、鰹木の数が5本と奇数であることから男性神を祀っているとも見える。與止日女神社の祭神は、元来男性神であった荒ぶる神そのものか、それを祀っていたシャーマン的性格を有する縄文系原住民の女性首長であろう。神社近くの磐座に宿る神は、荒ぶる神すなわち祟り神であった。荒ぶる神を鎮めるためには、縄文人の血を受け継ぐ土蜘蛛の女性に卜占してもらう必要があったのである。與止日女神社には、海からのぼってくる海の神に関する伝承がある。土蜘蛛も海の側にいたものが多いと伝えられている。このように與止日女神社は山中にあり巨石を御神体としながらも海との関係を匂わせている。ここに縄文の狩猟採集文化の残照が見て取れる。
以上のことから、與止日女神社は縄文以来の伝統を持つ祟り神をこの地に封じ込めたものであると推察される。
『肥前国風土記』
一云、郡西有川、名曰佐嘉川、年魚有之、其源出郡北山、南流入海。此川上有荒神、往来之人生半殺半。於茲県主等祖大荒田占問、于時有土蜘蛛大山田女、狭山田女。二女子云、取下田村之土、作人形馬形、祭祀此神、必有応和。大荒田即随其辞祭此神々〓、此祭遂応和之。於茲大荒田云、此婦如是実賢女、故以賢女欲為国名、因曰賢女郡、今謂佐嘉郡訛也。
又、此川上有石神、名曰世田姫。海神年常謂鰐魚、逆流潜上到此神所、海底小魚多相従之。或人畏其魚者無殃、或人捕食者有死凡、此魚等住二三日還而入海。