武士の発生

1.通説的理解
 武士の発生についての伝統的・通説的なとらえ方は以下のごとくである。
 摂関政治の時代、中央の政治は形骸化し藤原氏の一門が権勢を恣にし京都の枢要な官職を独占していた。藤原氏以外の下級貴族たちは都においてその志を遂げることができなかった。そこで国司となって地方に下り、その門閥の名声を利用してその勢力を扶植し、任期終了後も都に戻らずその地方に土着永住して広大な土地を私有し、一族・縁者を招き、現地の住民を懐柔して多数の家子(いえのこ)・郎等(ろうとう)をかかえた。このようにして地方の豪族が勃興するようになった。
 地方の政治も中央同様に乱れていき、国司のなかには人民を虐げて私腹を肥やすものも多く、荘園の増加にしたがって公田が減少し、所定の収入を得るために、租税の負担は否応なく重くなったため、食い詰めた民が土地を離れて諸方に流浪し、中には盗賊になるものも多かった。遂には山にも海にも群盗が横行するようになったが、すでに律令制に基づく軍制は崩壊していた。山賊・強盗・海賊たちが各地でしたい放題のことをしても、それに対応できる軍事・警察組織がないという無秩序の状況になっていた。このような状況の下で、地方の豪族や有力農民はその資産を守るために、弓馬の術を習い武装するようになった。彼らは家子や郎党などの従者たちを率い地方で小武士団をつくっていった。これが武士の起源である。
 諸国に勃興した武士には皇族及び貴族の子孫が少なくなかったが、中でも桓武天皇の皇子葛原親王の後裔である平氏、清和天皇の皇子貞純親王より出でた源氏が最も有力であった。源氏や平氏は元が天皇の子孫であるから家柄も良く名声もあるということで武士団の棟梁となり、そこに各地の小武士団が集い大武士団が形成されていったのである。(24.源氏の白旗 参照)

2.東夷 頼朝
 源頼朝は京都の貴族から「東夷」と呼ばれている。このころには、武士のことを夷(えびす)と呼んでいる。武士の中には、俘囚出身であることが明らかな者もいた。かの西行法師すなわち佐藤憲清は、秀衡入道の一族なりと『吾妻鏡』に明記してある。義経の家来であった佐藤継信・忠信などもそうである。板東武者や奧羽の住人は、進むことはあって退くことを知らず、「額に箭は立つとも背(そびら)に箭は受けじ」といわれた東人の流れを汲んでいる。東人は、東国の人であって、直接・間接に蝦夷の感化、影響を受けていた。彼らは佐伯部の「海行かば水浸く屍、山行かば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ」という武勇誠忠の思想を受け継いでいた。その東人が多く武士の家の子郎等となって鎌倉幕府の基をなし、鎌倉の武士はむしろ東夷といわれるものを名誉とするほどになった。この東夷こそ、義を見ては身命を鴻毛の軽きに比するの武士道の真髄を有するものであった。

3.夷という称号
 言葉は時代によって意味も価値も変わってくる。 平安朝末期の社会が混乱した時代には、「盗賊」という言葉が胆力のすわった者のことをあらわし、かえって名誉の意味となっていた。「某は妙(いみ)じき盗賊なり」などと『今昔物語』にあるが、必ずしも泥棒のことではない。悪僧とは僧兵のことで、必ずしもその称を恥じはしなかった。悪七兵衛・悪源太などの「悪」は「強い」の意味でむしろ名誉の称号であった。このような時代に起った武士であってみれば、たとえ夷の流れを汲んでいなくても、「夷」が勇敢な戦士を意味していたことから、むしろ名誉の称号であったかも知れない。

4.防人
 律令制がまともに運用されていた時代の軍事力は徴兵制に基づくものであった。正丁3人に1人の割で徴発されて、諸国の軍団の兵士になった。その兵士の中から都に行って1年間、衛士として宮門などの警備にあたる者や、防人として九州に送られ、3年間北部九州の警備にあたる者もいた。
 特に防人には東国出身の兵士があてられた。その理由は彼らが勇敢であったことであるが、別の理由としては、西日本の人々と違って、彼らが朝鮮半島や中国の人々と全く血縁がなかったためであろう。

5.理想的な武士のタイプ
 典型的な武士のイメージと言えば、体格ドッシリ、眼光鋭く、髭が長いといったところであろう。徳川時代に至っても、武士の従者である奴(やっこ)は髭がなくてはならない。髭のない「奴」には髭を書く。髭がないと武士の従者らしく見えないのである。すなわち典型的武士のイメージは公家とは大いに違って「多毛」なのである。

6.奥州の俘囚も武士
 明治維新の後、薩摩人を巡査に使ったから、明治の警官には薩摩人が比較的多い。したがって当時の芝居や落語・講談などにあらわれる警官は、多く薩摩弁を使う。薩摩弁でなければ、演劇や落語・講談では、なんとなく巡査らしく見えなかった。この状態が長く続いたなら、巡査すなわち薩摩人ということになったかも知れない。それと同じく武士に夷が多かったと言う事実から武士すなわち夷ということになったのかもしれない。
 鎌倉方は泰衡らを「夷」とは呼んでいない。奥州の夷を攻めるのが夷である鎌倉武士なら、もはや「征夷」とはいえなかったのではないか。あるいは、奥州の俘囚を自分たちと同じ武士だと認めていたのであろう。

7.武士とは殺生を生業とする職能民であるとの論
 上述のように、武士の発生については少なくとも従来の通説的理解だけではいけないようである。
ここ数年、さかんになってきた説に「武士=殺生を生業とする職能民」というものがある。狩猟民などを武士の源流と考え、武士とは「弓馬の芸」=騎射という特殊な戦闘技術を身につけた一種の芸能者であり、武器・武具を用いた殺生・殺人をその職分であるとする考え方である。
 梅原猛は「武士は、もともと狩猟採集を業としていた縄文の遺民とみてまちがいないであろう。」といっている。

「近年、発生当初の武士は、特殊軍事貴族・俘囚・狩猟民など殺生を業とする諸身分の複合体として登場し、平安末期以降に地方領主として所領経営者の性格をも備えるようになるとみる考え方が有力である」山川出版社発行『日本史広辞典



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