蝦夷の民族性

 古代東北地方に盤踞し、大和朝廷の「征伐」の対象であった蝦夷。その種族的系譜については種々の説があるものの、蝦夷が縄文人の直系の末裔であることにいまや誰しも異論はないと思う。
 その蝦夷の「性格」を知ることは縄文人の「性格」を知るうえで役立つものと考える。筆者は蝦夷の民族的性格は次の3点に要約されると思う。
@蝦夷は強い。
A蝦夷はだまされやすい。
B蝦夷は仲間を裏切る。


1.蝦夷は強い

(1)蝦夷は剛勇の代名詞

 神武東征のとき神武軍が、ヤマトに入る前に、忍坂(おしさか)(=現桜井市忍阪)で敵である先住勢力を宴会に招き、酔いつぶれたところを殺してしまった後で、戦勝を悦んで久米の子らがうたった歌がある。
「えみしを 一人(ひだり) 百(もも)な人(ひと) 人(ひと)は云(い)へども 抵抗(たむかひ)もせず(人は、えみしを一人で百人にも相当する強者だといっているが、俺たちにかかれば抵抗もしなかった)」

 文献史上に初めてあらわれる蝦夷の記述である。これが事実とすれば、神武東征のころ大和あたりにも蝦夷は住んでいたことになる。そしてこの久米歌にうたわれるように、古代の日本において蝦夷は剛勇の代名詞であった。上記の歌も、実は後世の「蝦夷は強い」という思想で詠んだ歌を神武東征のときのものに擬したのであって、神武天皇勢の敵が蝦夷であったという証拠にはならないのではないかと疑うこともできる。
 ともあれ蝦夷は強いものとして古くから信じられていた。景行天皇の御代に武内宿禰が勅命を奉じて東国地方を探検した。その時の復命には、「東夷の内に日高見という国がある、その国人男女ともに椎結文身の風で、人となり勇悍、これをすべて蝦夷という。」とあり、蝦夷の勇敢が記述されている。

(2)強い蝦夷と弱い朝廷軍
 平安朝ころの朝廷軍は非常に弱い。一方、時代は下っても蝦夷は相変わらず強かったようである。
 嵯峨天皇の弘仁11年に、遠江・駿河の2国にいた新羅人700人が暴動を起こした。そこで遠江・駿河に加えて相模・武蔵等7ヶ国の兵を発してようやく制圧したという。
 清和天皇の貞観11年に、新羅船が2艘やって来て、太宰府へ送る貢船を掠(かす)めた。そこで太宰府の兵を発してこれを討たしめたようとした。しかし兵士は皆臆病者ばかりで尻込みをして誰も戦おうとしなかった。やむを得ず、その地方にいた蝦夷を徴発してこれに向かわしめた。すると、「一以て千に当たる」という勢いで容易に賊船を追い払ってしまった。それ以来、太宰府の海岸は蝦夷をもって護らしめることになったという。
 陽成天皇の元慶7年に、上総におった蝦夷人がわずか40人で暴行を始めた。国司はさっそく兵1000人を発してこれを追討した。ところが、彼らは山中に籠もって嶮(険)によってこれを防いだ。国司は急を朝廷に奏し、「数千の兵を発するにあらずんば、これを平ぐる能わず」といったとある。まさに蝦夷の強さこそ「一以て千に当たる」というべきである。

(3)蝦夷は勇猛な外人部隊
 古代より蝦夷は兵士として使役された。はじめ宮門を守る役目は九州出身の兵である久米部が担っていた。天孫族は黥(いれずみ)をしないが、久米部は黥(いれずみ)をしている。久米部の帯びた頭椎剣は隼人の剣に似ているなどの理由から、久米部とは隼人あるいは隼人の日本人に同化したものから組織した兵ではないかともいわれている。
 雄略天皇の御代からは蝦夷の兵士をして久米部と並んで左右の宮門を守らしめた。これがすなわち有名な「佐伯部」である。佐伯部について日本書紀は、日本武尊の蝦夷征伐の時に、蝦夷の捕虜を伊勢神宮に献じたと記述している。「常陸風土記」にも昔、「山の佐伯」「野の佐伯」というものがいたとある。すなわち山夷・田夷で、蝦夷のことを佐伯といったので。この佐伯から組織したのが佐伯部の兵で、それに宮門を守らせたのである。佐伯部は勇気に優れていたばかりでなく、忠誠心が旺盛であったという。

「海行かば水浸(づ)くかばね、山行かば草生(む)すかばね、大君の辺(へ)にこそ死なめ、のどには死なじ。−海へ行けば屍を水に浸し、山に行けば草の中に屍を曝すとも、厭うところではない。大君のほとりにこそ生命は捨てるが、のどかには(or無駄には)死なない。」

この歌は大伴・佐伯宿禰の家訓で、聖武天皇の「宣命」(『続日本紀』天平勝宝元年四月条)の内にも引用されている。もともと大伴氏が久米部を率いるときのスローガンであったのであろうが、蝦夷から出た佐伯部も、これと同じスローガンのもとに忠義にはげんだのである。

 聖武天皇は、東国人をもって中衛府を組織して宮中を守らしめた。「此の東人は常に云く、額に箭(や)は立たじと云ひて、君を一つ心を以て護るものぞ」と孝謙天皇「宣命」(『続日本紀』神護景雲三年十月条)に述べられている。これ気概は佐伯部が、「大君の辺にこそ死なめ、のどには死死なじ」といったのと同じ思想である。東国人は君のためには生命を捨てること鴻毛のごとしというのである。古代東国は蝦夷がもっぱら住んでいたところである。
 貴紳、豪族の従者、すなわち「侍」というものは多く東人であった。蘇我入鹿の従者も東国人であった。時代が下って平安朝・鎌倉時代までも常にそうである。
 九州の海岸を守る防人ははるばる東人を東国から連れて行った。一時は往復が非常に煩わしいので、これを止めて九州人を用いたことがあった。しかし「筑紫の人は辺をまもるの器にあらず」となって、再び筑紫の海岸は東国人で守ることになった。平安朝にも筑紫人ではまともに防人が勤められず、蝦夷を辺境の防備に使った。また、蝦夷はしばしば兵士として、また警士・警吏の下役として用いられた。海岸防御、海賊の退治、強盗の追補など困難で危険、面倒なところには蝦夷を引き出すというのが朝廷の常套手段であった。

(4)一は以て力となし、一は以て声となす
 蝦夷を兵として使役したのは、彼らが強いからというだけではない。異族をもって兵を組織し、禁中を守らしめるということは、他国にも例が多い。朝鮮では野人・倭人を使役した。野人というのは満州人、倭人というのは日本人である。朝鮮では野人・倭人をもって護国、護宮の兵士としたばかりではなく、これをもって国の名誉とした。「一は以て力となし、一は以て声となす」とはこのこのことをいう。異族の者もわが国の徳に服し、各兵士として忠実に立ち働いていることをもって誇りとする。中国にも同様の例がある。日本で古く久米部・佐伯部の兵を用いたのも、幾分この意味があるのであろう。奈良時代、中衛府・外衛府という二つの禁衛隊が出来た。すなわち後の近衛である。東国人をもって中衛府を組織し宮中を守らしめ、外衛府には帰化人を充てたという。

 このように強い蝦夷がなぜか結局、強くない大和王権軍に負けて、ついに皆「日本人」になってしまった。中国史においても、北方の武力に優れた異民族がしばしば中国へ侵入して中国を征服している。その強い異民族は戦争では中国に勝っても、常に中国文化に征服せられて、皆な情弱に流れ、さらにまた北方の強者に征服される、という繰り返しを演じてきた。日本では、天孫族が、「夷をもって夷を制す」政策をもって、政治的にもこの北方の強者を従えたうえに、されにこれを文化的にも征服して、同化、吸収してしまった。奥羽地方の拓殖の結果、蝦夷はあるいはだんだんと内地に移配され、蝦夷の地へは大和王権の臣民が入り込んで奥羽の拓殖を進めて行った。また蝦夷の地に残った者は大和の文明を受けて拓殖に従事して行った。

『続日本紀』
神護景雲三年十月
孝謙天皇の宣命:「此の東人は常に云く、額に箭(や)は立たじと云ひて、君を一つ心をもちて護るものぞ」
和銅三年
正月一日 天皇は大極殿に出御して、朝賀を受けられた。薩摩の隼人と蝦夷らも参列した。左将軍・正五位上の大伴宿禰旅人と副将軍・従五位下の捕積朝臣老、右将軍・正五位下の佐伯宿禰石湯、副将軍・従五位下の小野朝臣馬養らが皇城門の外の朱雀大路に東西に分かれて、各々騎兵が先頭に立ち、隼人や蝦夷を率いて進んだ。
宝亀九年
十二月二十六日 陸奥国・出羽国に命じて蝦夷二十人を召した。唐客が拝朝するときの儀仗兵にしようとするためである。


2.蝦夷はすぐ仲間を裏切る
(1)夷をもって夷を制(征)す
「以夷制夷」
 歴代の征夷の詔勅を見ると、「夷を以て夷を制するは是古への上計」などと見えている。蝦夷は強い、そこでいつでも蝦夷を征する場合には、うまく蝦夷を用いて、蝦夷同士の戦争をやらせるのである。このやり方は、ローマの「分割して支配せよDivide et impera.」の政策に似ている。
 日本武尊(倭建)は5世紀に上総・相模・常陸・甲斐・上野・武蔵・信濃に遠征したという。このときには東国は蝦夷地だった。そして、8世紀に坂上田村麻呂に代表される東北の蝦夷征討になると兵はこれら東国からかり集められる。まさに「夷をもって夷を征す」である。
 朝廷は、俘囚を蝦夷地から離して関東以西に移す。朝廷の政策は、なるべく彼らを団結させないことにあった。常に「夷をもって夷を制(征)す」の方法を採っている。

(2)蝦夷をバカにする蝦夷
 宝亀11年に陸奥の国に大事件が起こった。伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)が叛乱を起こし牡鹿郡の大領である道嶋大楯と按察使・参議の紀広純を殺したのである。
 伊治公呰麻呂はもともと伊治村の蝦夷の首長であったが朝廷に帰順していた。志和地方の蝦夷の騒乱を鎮圧した際の功績に対して同じく帰順した蝦夷であった吉弥侯伊佐西古(きみこのいさしこ)とともに叙勲され外従五位下の位についていた。
 ところが、同じく蝦夷出身でありながら、同族から橘奈良麻呂や藤原仲麻呂の乱の際の活躍で異例の昇進を重ね、正四位・勳二等・近衛中将にまでなった道嶋嶋足を出している道嶋大楯は、平生より呰麻呂を蝦夷として侮辱していたという。それを深く恨みに思っていた呰麻呂は敵の蝦夷と通謀して反乱を起こしたのである。陸奥介であった大伴真綱は日頃から呰麻呂を侮辱することがなかったためであろうか、呰麻呂は真綱だけは囲みを解いて逃がしている。

『続日本紀』
宝亀11年(780年)

三月二十二日 陸奥国上治郡(伊治郡)の大領・外従五位下の伊治公呰麻呂が反乱をおこし、衆徒を率いて按察使・参議・従四位下の紀朝臣広純を伊治の城で殺した。広純は大納言・中務卿兼任・正三位の紀朝臣麻呂の孫、左衛士督・従四位下の宇美の子である。宝亀年中に地方官につき陸奥守に任ぜられ、ついで按察使に転任した。職務にあって、政務を見ることに有能と称えられた。伊治公呰麻呂は俘囚の子孫である。初めは事情があって広純を嫌うことがあったが、呰麻呂は恨みを隠し、広純に媚び仕えるふりをしていた。広純はたいそう彼を信用して特に気を許した。また牡鹿郡の大領の道嶋大楯は同じ蝦夷出身でありながら常に呰麻呂をみさげあなどり、蝦夷としてあつかった。呰麻呂はこれを深く根に含み持っていた。
 時に広純は建議して覚?柵のとりでを造り、警備衛兵や斥候を遠くに配置した。そして、蝦夷軍を率いて伊治城に入った時、大楯と呰麻呂がともに従っていた。ここで呰麻呂はひそかに敵に通じ、蝦夷の軍を導き誘って反乱をおこした。まず大楯を殺し、衆徒を率いて按察使の広純を囲み、改めてこれを殺害した。ただひとり陸奥介の大伴宿禰真綱のみ囲みの一角を開いて出し多賀城に護送した。多賀城は長年、陸奥国司の治めている所で、兵器や食糧の貯えは数えられないほどであった。城下の人民は競って城中に入り保護を求めた。ところが、陸奥介の真綱と陸奥掾の石川浄足はひそかに後門より出て逃走した。結局、人民はよりどころを無くして、たちまち散り散りに去っていった。数日して賊徒が多賀城に至り、府庫のものを争って取り、思いものも残らず持ち去った。あとに残ったものは火を放って焼いた。

(3)前九・後三の役
 俘囚とは帰順した蝦夷である。前九年の役において、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義は、配下の官軍のみならず、蝦夷などをも使って俘囚の長である安倍貞任を攻めたが、前後12年を費してまだこれを平げることが出来ない。そこで最後に、頼義は出羽仙北の俘囚長清原武則を賄賂攻勢などあの手この手で懐柔し、やっとのことで説きふせ、俘囚同士を戦わせることによってなんとか勝ったのである。清原武則が1万の俘囚兵を率いてやって来たとき、頼義は武則の手を取って喜んで泣いたとある。前九年の役とよばれる安倍氏追討だけに9年間ではなく実際には12年を費している。安倍氏追討における清原氏の功に報いるため、頼義は武則を鎮守府将軍に推挙したのである。結局、前九年の役は、俘囚長安倍氏が俘囚長清原氏に代わったに過ぎない。そればかりか、清原氏の方では、頼義が清原氏の家人になり、清原氏がこれを救ってやったくらいに思っていた。

(4)蝦夷敗退の原因は団結力の欠乏
 この時もし俘囚同士が団結し、清原氏と安倍氏とが一致するか、少くも清原氏が頼義を助けなかったならば、前九年の役は12年どころかいつまでたっても終わらなかったのではなかろうか。
 イギリスはムガール帝国内の藩王(マハラジャ)をお互いに争わせて藩王国を保護国化し、最後には併合してしまうという高等戦術をとったが、文室綿麻呂は蝦夷に対して同様なことを行っている。
 前九年の役でも、源頼義は金為時を奥六郡のさらに北の安倍富忠に派遣した。安倍富忠は金為時の説得によって官軍つまり頼義方につく。金為時も安倍富忠もともに安倍一族であったのである。
 鎌倉時代に至っても、やはり奥州の蝦夷同士喧嘩をして、彼らは次第に弱ってしまった。蝦夷も俘囚も仲間同士で戦っていては当然に弱くなる。彼らに団結させず、「夷をもって夷を制す」政策で朝廷は着々と奥州を支配下においていったのである。

(5)参考:弘法大師空海と蝦夷
 空海の父方は佐伯氏であるが、佐伯氏は、佐伯部を管理する仕事をしていたといわれている。佐伯部とは蝦夷のことである。日本武尊の蝦夷征伐の時に、蝦夷の捕虜を伊勢神宮に献じた。ところが、彼らは昼夜喧しく騒いだ。そこで「せへぎ」部と言ったのだという説明がある。あるいは蝦夷人の言葉が通じないので、いかにも喧しく騒ぐように聞こえたから、そういう名が付いたのかも知れない。「常陸風土記」には、昔、「山の佐伯」「野の佐伯」というものがいたとある。この佐伯から組織したのが佐伯部の兵である。
 大伴・佐伯宿禰の家訓である
”海行かば水浸(づ)くかばね、山行かば草生(む)すかばね、大君の辺(へ)にこそ死なめ、のどには死なじ”
のもと、佐伯部は忠義にはげんだ。
 大伴氏の一族が、佐伯宿禰となってこの佐伯部を率いることになったといわれている。しかし空海と同時代には、俘囚を管理する俘囚長もまた俘囚であったことを考えると、佐伯氏がエミシの系統であってもおかしくはないとおもわれる。そこで、佐伯氏は蝦夷=縄文人であり、空海もまた縄文人であるとの説などがある。
 さらに佐伯氏は常陸の国に在住し、砂鉄や水銀の採鉱にたずさわっていてたと言われる。空海の祖先はその功績により四国讃岐に移住してきたという。母方の阿刀(アト)氏は渡来人系であるが、物部氏と同祖ともいわれ、産鉄に携わっていたとの伝承を持つ。
このように空海は蝦夷の血を引くかそうではないまでも、因縁浅からざる関係があるにもかかわらず、以下に示すように、蝦夷は人間などではなく獣か鬼の類であるといっているのである。

遍照発揮性霊集巻第一
野陸州に贈る歌 並びに序 雑言

戎狄馴れ難く、辺笳感じ易し。古自り有り、今何ぞ無からん。公、大廈の材を抱きて、出でて犲狼の境を鎮む。堂中久しく定省の養を闕き、魏闕遠く龍顔の謁を阻つ。天理合に歓然すべしと云ふと雖も、人情豈感歎すること無からんや。貧道と君とは遠く相知る。山河雲水何ぞ能く阻てん。白雲の人、天辺の吏、何れの日か念ふこと無からん。聊か拙歌を抽んでて、以て辺霧の解頤に充つ。

日本の麗城三百州
就中 陸奥は最も柔げ難し
天皇 赫怒して幾たびか剣を按ず
相将 幄中に争ひて謀を馳す
往帝も伐ち
今上も憂ふ
時時の牧守 劉つ能はず
古自り将軍 悉く啾啾たり
毛人 羽人 境界を接し
猛虎 豺狼 処処に鳩まる
老?の目
猪鹿の裘
髻中には骨毒の箭を挿著し
手上には毎に刀と矛とを執る
田せず衣せず 糜鹿を逐ひ
晦も靡く明も靡く 山谷に遊ぶ
羅刹の流にして
人の儔に非ず
時時 人の村里に来往し
千万の人と牛とを殺食す
馬を走らせ刀を弄ぶこと電撃の如く
弓を彎き箭を飛ばせば誰か敢へて囚へん
苦しい哉 辺人 毎に毒を被り
歳々年々 常に愁いを喫す
我が皇 世の為に出でて能く鑒み
亦焉を刃局に咨る
千人万人 挙すれども応ぜず
唯君のみ一箇 帝心に抽んでらる
山河の気
五百の賢
允に武允に文 天自り得
九流 三略 肚裏に呑む
鵬翼 一たび搏つて此の境を睨み
毛人 面縛して城辺に側つ
凶兵 庫に蘊めて冶鋳を待ち
智剣 胸に満ちて 幾許千ぞ
戦はず 征せず 自ら敵無く
或いは男 或いは女 天年を保つ
昔聞く ?帝干舞の術
今見る 野公の略 匹無きを
京邑の梅華は春に先んじて開き
京城の楊柳は春日に茂し
辺城 遅く暖にして 春蘂無く
辺塁 早く冬にして 茂実無し
高天 高しと雖も 聴くこと必ず卑し
況んや 鶴響 九皐より出づるをや
愁ふる莫れ 久しく風塵の裏に住まることを
聖主 必ず 万戸の秩に封ぜん 

『続日本紀』
霊亀元年(715)
十月二十九日 陸奥の蝦夷で第三等の邑良志別君宇蘇彌奈(おらしわけのきみうそみな)らが言上した。「親族が死亡してしまい、子孫が数人しか残っていない。そのため常に蕃族に侵略されることを恐れている。どうか香河村に郡家を設けて、私たちを編戸の民に入れて、長く安心していられるようにしていただきたい」と。
養老六年
四月十六日 陸奥の蝦夷・薩摩の隼人らを征討した将軍以下の官人たちと、征討に功績のあった蝦夷および通訳の者に、地位・功績に応じて勲位を授けた。
養老七年
九月十七日 出羽国司・正六位上の多比真人家主が言上した。
 蝦夷らすべて五十二人は、征討のさいの功績が顕著ですが、まだ褒賞の恩典にあずかっておりません。彼らは首を長くして天恩が下されることを待っています。謹んで思いますのに、よい餌をつけて釣れば、深い淵の魚も釣ることができ、俸禄を重くすれば、忠節の臣があらわれるといいます。今、愚かな夷狄もようやく君命に奔走するようになりましたが、永らく彼らをいたわり慰めないと、おそらくまた散りぢりになってしまうでしょう。そこで彼らの働きの有様を具申して、裁定を頂きたいと思います。
勅命があって、その功績に応じて、それぞれ褒美と位を与えた。
天平九年
四月十四日 陸奥国に派遣された持節(征夷)大使で従三位の藤原朝臣麻呂らが言上した。
 ・・・・・夷狄たちは皆疑いと恐れの念を抱いております。そこで農耕に従事している蝦夷で、遠田郡の郡領・外従七位上の遠田君雄人を海沿いの道に遣わし、帰順した蝦夷の和我君計安塁を山中の道に遣わし、それぞれ遣使の趣旨を告げてなだめ諭し、これを鎮撫しました。・・・・・帰順した夷狄百四十人を率い、この大室駅に滞在し待機すること三日で、将軍東人の軍と合流して賊地に入り、道を開拓しながら行軍しました。・・・・・帰順した夷狄らのいうところでは、比羅保許山から雄勝村に至る五十里あまりは、また平坦地です。ただ二つの河があって、増水する度に両所とも船を用いて渡るといいます。・・・・・「雄勝村の服従した蝦夷の長ら三人が来て拝首していうのに、『官軍が我々の村に入ろうとされていると承ります。不安にたえられず降伏を請うためにやってきました』といっております」と伝えてきました。・・・・・
天平宝字四年
正月二十一日 天皇は次のように勅した。
 ・・・・・また軍士や蝦夷の俘囚で軍功のあるものは、按察使が選び定めて奏聞せよ。
神護景雲元年
十月十五日 天皇は次のように勅した。
 ・・・・・また外従五位下の吉弥侯部真麻呂は、国のために率先して力を尽くし、ついに蝦夷をすなおに服従させ、夷狄の民はなつき従った。そこで外正五位下に昇進させる。その他の諸軍の軍毅以上の者や、諸国の軍士・蝦夷の俘囚などで、築城に際して功績があり、叙位すべきものは、鎮守将軍がそれぞれ功労に応じて、等級を勘案し決定して奏上するように。
神護景雲元年
十二月八日 外従五位下の武蔵宿禰不破麻呂を武蔵国の国造に任じ、正四位上の道嶋宿禰嶋足を陸奥国の大国造に任じ、従五位上の道嶋宿禰三山を国造に任じた。
宝亀元年
四月一日 陸奥国の黒川・賀美など十一郡の俘囚三千九百二十人が、次のように言上した。
「私どもの父祖はもと天皇の民でありましたが」、蝦夷にかどわかされて、卑しい蝦夷と同じ身分になりました。今はすでに敵(蝦夷)を殺して、帰順し、子孫も増えております。どうか俘囚の名を除いて、調庸を納めさせていただくようお願いします」と。
この申請を許可した。
天平宝字二年
十二月八日 坂東の騎兵・鎮兵・役夫と帰順した蝦夷らを徴発して、桃生城・小勝柵を造営した。この造営には五道の諸国がみな参加して、ともに築城の工事を行った。
神護景雲三年
十一月二十五日 陸奥国牡鹿郡の俘囚、少初位上・勲七等の大伴部押人が次のように言上した。
 伝え聞くところによりますと、押人らの先祖はもと紀伊国名草郡片岡里の人ということです。昔、先祖の大伴部直が蝦夷征伐の時、陸奥国小田郡嶋田村に至り、住みつきました。その後、子孫は蝦夷の捕虜となり、数代を経て俘囚とされました。幸い尊い朝廷が天下を治められるめぐり合わせとなり、優れた武威が辺境を制圧しているのを頼みとして、あの蝦夷の地を抜け出てから、すでに久しく天皇の徳化のもとにある民となっています。そこで俘囚の名を除き、調庸を納める公民になることを申請します、と。
これを許可した。
宝亀十一年
三月二十二日 陸奥国上治郡(伊治郡)の大領・外従五位下の伊治公呰麻呂が反乱をおこし、衆徒を率いて按察使・参議・従四位下の紀朝臣広純を伊治の城で殺した。・・・・・伊治公呰麻呂は俘囚の子孫である。初めは事情があって広純を嫌うことがあったが、呰麻呂は恨みを隠し、広純に媚び仕えるふりをしていた。広純はたいそう彼を信用して特に気を許した。また牡鹿郡の大領の道嶋大楯は同じ蝦夷出身でありながら常に呰麻呂をみさげあなどり、蝦夷としてあつかった。呰麻呂はこれを深く根に含み持っていた。・・・・・蝦夷軍を率いて伊治城に入った時、大楯と呰麻呂がともに従っていた。ここで呰麻呂はひそかに敵に通じ、蝦夷の軍を導き誘って反乱をおこした。まず大楯を殺し、衆徒を率いて按察使の広純を囲み、改めてこれを殺害した。・・・・・
天応元年
十月十六日・・・・・また軍功のあった蝦夷の人には等級に差をつけて、勲六等相当には一等を、勲八等相当には二等を、勲九等には三等を、勲十等には四等を授けた。

『日本後紀』巻一逸文
延暦十一年
正月十一日 陸奥国が言上した。斯波村の蝦夷で胆沢公阿奴志等が、使をよこして王化に帰したいと請うています。

3.蝦夷はだまされやすい
(1)文化的侵略

 今一つの政策は、蝦夷の地に大和の文明を伝え、彼らを同化せしめることである。蝦夷の帰服したものには優待を与えてだんだんと内地に移す。こうやって彼らの勢力を殺ぐと同時に、朝廷支配下の人を続々と蝦夷の地に移す。このようにして人間の入れ替えをやった。蝦夷の伝統文化は次第に大和化されていき、蝦夷でありながら蝦夷の文化や伝統を恥とするようになっていった。

(2)飲ませる、喰わせる、握らせる
 前に述べた「えみしを 一人百な人 人は云へども 抵抗もせず」という久米部の歌も、敵を宴会に招き酔いつぶれたところを殺してしまったときのものであるが、その後も蝦夷は様々な時と場所で宴会に招かれては殺されているのである。蝦夷は人を信じやすい。「信じるものは救われる」わけではなく「信じるものはだまされる」のである。南北朝ころになっても、東人は信ずべきものとして認められていた。兼好法師の『徒然草』には、「吾妻人こそ其のいう事は頼まるれ、都の人は言請のみよくて実なし。」とある。信義を重んじ他人を信じるという美徳は民族を滅亡へと導く落とし穴でしかなかったのである。
 斉明4年4月、阿倍比羅夫は船180艘を連ねて日本海岸を北上、現在の秋田県秋田市、雄物川の河口のアギタ浦についたとき、アギタ蝦夷の首長の恩荷(オガ)は安倍比羅夫に恭順し、恩荷は小乙上という官位をもらった。阿倍比羅夫はさらに北ヘ行き、有間浜に渡島の蝦夷を集めて饗応をしている。
 飲ませる、喰わせる、珍奇な品物を与える、官位を与えるなどの手段を用いて、あるいはだまし討ちにし、あるいは懐柔するといった方法が朝廷の常套手段であった。


『続日本紀』
斉明天皇4年7月
蝦夷(えみし)二百余、闕(みかど)に詣でて朝献(ものたてまつ)る。饗(あえ)賜ひて、贍(にぎはえ)給ふ。
常より加れること有り。仍(なお)柵養(きかふ)の蝦夷二人に位一階(しな)授く。渟代(ぬしろ)郡の大領沙尼具那(さにぐな)には小乙下(せうおつげ)、少領(すけのみやっこ)宇婆左(うばさ)には建武、勇健者(いさみたけきもの)二人には位一階。
別に沙尼具那等に、鮹旗(たこはた)二十頭(はたち)・鼓二面・弓矢二具(そなえ)・鎧二領を賜ふ。
津軽郡の大領(こほりのみやっこ)馬武(めむ)に大乙上、少領(すけのみやっこ)青蒜(あおひる)に小乙下(せうおつげ)、勇健者(いさみたけきもの)二人には位一階授く。
別に馬武等に、鮹旗(たこはた)二十頭(はたち)・鼓二面・弓矢二具(そなえ)・鎧二領賜ふ。
都岐沙羅(つきさら)の柵造(きのみやっこ)には位二階(しな)授く。判官(まつりごとひと)には位一階。渟足(ぬたり)の柵造大伴君稲積には小乙下授く。
又、渟代(ぬしろ)郡の大領(こほりのみやっこ)沙尼具那(さにぐな)に詔して、蝦夷の戸口(へひと)と、虜(とりこ)の戸口とを検覈(かむがへあなぐ)らしむ。

斉明天皇5年3月
是の月に、阿倍臣(あへのおみ)を遣して。
船師(ふないくさ)一百八十艘を率て、蝦夷国(えみしのくに)を討つ。阿倍臣、飽田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡の蝦夷二百四十一人、其の虜三十一人、津軽郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、胆振金/且(いふりさへ)の蝦夷二十人を一所に簡(えら)び集めて、大きに饗(あへ)たまひ禄賜(ものたま)ふ。即ち船一隻と、五色の綵帛〔しみの帛=絹)とを以て、彼(そ)の地(ところ)の神を祭る。肉入籠(ししりこ)に至る。時に、問菟(とひう)の蝦夷胆鹿嶋(いかしま)・菟穂名(うほな)、二人進みて曰く、「後方羊蹄(しりへし)を以て、政所(まつりごとどころ)とすべし」といふ。胆鹿嶋(いかしま)等が語(こと)に随ひて、遂に郡領(こほりのみやっこ)を置きて帰る。
道奥(みちのく)と越(こし)との国司(くにのみこともち)に位各二階(しな)、郡領(こほりのみやっこ)と主政とに各一階授く。

天武天皇下十一年三月二日、
陸奥(ミチノク)国の蝦夷(エミシ)二十二人に、爵位を請ふ。
同四月二十二日、
越(コシ)の蝦夷(エミシ)伊高岐那(イコキナ)等、俘人(トリコ)七十戸(ヘ)を一郡とせむと請す。乃ち聴す。

持統天皇二年十一月五日
蝦夷(エミシ)百九十余人、調賦(ミツキ)を負荷ひて誄(シノビコトタテマツ)る。

同十二月十二日
蝦夷(エミシ)の男女二百十三人に飛鳥寺の西の槻の下に饗(あへ)たまふ。仍りて冠位を授けて、物賜ふこと各差(シナ)有り。

文武天皇三年
四月二十五日 越後の蝦夷百六人に、身分に応じて位を授けた。

文武天皇三年
四月二十一日 陸奥の蝦夷らが君の姓を賜り、編戸の数に入り、公民の扱いを受けたいと申請し許可された。

霊亀元年
正月一日 天皇は大極殿に出御して、官人の朝賀を受けられた。皇太子は初めて礼服を着て朝賀に列した。陸奥・出羽の蝦夷に加えて、南嶋の奄美・夜久・度感・信覚・球美等の島民が来朝し、土地の産物を貢上した。それを迎える儀式には、朱雀門の左右に、鼓吹と騎兵を列にしてならばせた。元日の儀式に鉦や鼓を用いることはこのときから始まった。

霊亀元年
正月十五日 蝦夷と南嶋の人々七十七人に、地位に応じてそれぞれ位階を授けた。

養老二年
八月十四日 出羽と渡島の蝦夷八十七人が入京し、馬千疋を貢上した。よって位と録を授けた。

天平八年
四月二十九日 陸奥・出羽の二国で功労のあった郡司と、帰順している蝦夷二十七人にそれぞれの功績に応じて爵位を授けた。

天平勝宝五年
五月二十五日 この日、陸奥国牡鹿郡の人、外正六位下丸子牛麻呂・正七以上の丸子豊嶋ら二十四人に、牡鹿連の氏姓を賜った。

天平勝宝五年
八月二十五日 陸奥国の人、大初位下の丸子嶋足に牡鹿連の姓を賜った。

天平宝字二年
六月十一日 陸奥国が言上した。
去年八月以来、帰順した夷俘の男女は、千六百九十余人であります。彼らは故郷を遠く離れて、天皇の教化に浴することをのぞみ、ある者は戦場を渉り歩いて、賊に怨を生じた者たちであります。これらすべては新たに帰順したものであって、まだ本当には安定していません。また蝦夷の性質は狼のような心であって、ためらいがちで疑心多いものです。そこで望み願いますことは、天平十年閏七月十四日の勅を准用して、種籾を給付し水田を耕作できるようにさせて、永く王民となし、辺境の軍にも充てようと思います。
これを許可された。

神護景雲三年
正月七日 天皇は法王宮に出御して、五位以上の官人と宴を催した。道鏡は五位以上の官人に摺衣を各一領、蝦夷に緋袍を各一領与えた。・・・・・

神護景雲三年
三月十三日 陸奥国白河郡の人で、外正七位上の丈部子老・加美郡の人、丈部国益・標葉郡の人で、正六位上の丈部賀例努ら十人に阿倍陸奥臣の姓を賜った。
 また安積郡の人で、外従七位下の丈部直継足に阿倍安積臣の姓を、信夫郡の人で外正六位上の丈部大庭らに阿倍信夫臣の姓を、柴田郡の人で外正六位上の丈部嶋足に阿倍柴田臣の姓を、会津郡の人で外正八位下の丈部庭虫ら二人に阿倍会津臣の姓を、磐城郡の人で外正六位上の丈部山際に於保磐城臣の姓を、牡鹿郡の人で外正八位下の春日部奥麻呂ら三人に武射臣の姓を、日理郡の人で外従七位上の宗何部池守ら三人に湯坐日理連の姓を、白河郡の人で外正七位下の靱大伴部継人・黒川郡の人で、外十六位下の靱大伴部弟虫ら八人に靱大伴連の姓を、行方郡の人で外正六位下の大伴部三田ら四人に大伴行方連の姓を、苅田郡の人で外正六位上の大伴部人足に大伴苅田部の姓を、柴田郡の人で外従八位下の大伴部福麻呂に大伴柴田臣の姓を、磐瀬郡の人で外正六位上の吉弥侯部人上磐瀬朝臣の姓を、宇多郡の人で外正六位外の吉弥侯部文知に上毛野陸奥公の姓を、名取郡の人で外正七位下の吉弥侯部老人と、加美郡の人で外正七位下の吉弥侯部大成ら九人に上毛野名取朝臣の姓を、信夫郡の人で外従八位下の吉弥侯部足山守ら七人に上毛野鍬山公の姓を、新田郡の人で外大初位上の吉弥侯部豊庭に上毛野中村公の姓を、信夫郡の人で外少初位上の吉弥侯部広国に下毛野静戸公の姓を、玉造郡の人で外正七位上の吉弥侯部念丸ら七人に下毛野俯見公の姓をそれぞれ賜った。これらの氏姓は大国造の道嶋宿禰嶋足の申請によるものであった。

宝亀二年
十一月十一日 陸奥国桃生郡の人で外従七位下の牡鹿連猪手に「道嶋宿禰」の氏姓を賜った。

宝亀三年
正月十六日 陸奥、出羽の蝦夷が郷里に帰るため、地位に応じて位階と物とを賜った。

宝亀三年
七月十七日 陸奥国安積郡の人、丈部継守ら十三人に「阿部安積臣」の氏姓を賜った。

宝亀三年
五月五日 陸奥国が次のように言上した。
遠田郡の郡領で外正八位上・勲八等の遠田公押人が訴えて「私はすでに蝦夷の濁った風習を洗い落として、その上天皇の清らかな教化を敬い慕っております。もうその志は内地の民と同じで、習わしは立派なこの国を手本と仰いでいます。ところが、まだ田夷の姓を免除されず、長く子孫に恥を残すことになります。どうか他の公民と同じように夷の姓を改めて下さるようお願いします」といっています。ここに天皇は「遠田臣」の氏姓を賜った。



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