現在の白村江 錦江河口 白村江(はくすきのえ)の不思議

 太平洋戦争(大東亜戦争)に敗れるまで、我が日本は一度たりとも外国の侮りを受けたことがない、と多くの日本人は信じている。しかし今から1300年以上も前に日本は他国に大敗北を喫していた。白村江の戦いにおける敗戦である。

1.当時の東アジア情勢
 唐は中国を統一(628年)すると、周辺国を次々に制圧していった。さらに国境を接する高句麗に照準を定め、新羅と手を組んだ。この結果、東アジアは「唐・新羅」と「高句麗・百済・倭」という二つの陣営に分かれることになる。当時の超大国・唐の対外強硬策は、高句麗、百済、新羅と倭を、国際紛争の渦中に引き込んだのである。
 百済は長年、東隣の新羅と攻防を繰り返していた。新羅は唐と結び、白村江の戦いの3年前、660年3月、唐の高宗は水陸13万の大軍をもって百済を襲った。新羅の武烈王も5万の兵を百済に進攻させる。これにより百済の義慈王は降服し、
百済は一度滅んだ

2.百済復興を期して
 唐が主力を高句麗に転じた間隙に、百済の遺臣
鬼室福信は倭に使者を派遣。援軍の派遣と人質として倭にいた百済の王子・餘豊璋の送還を要請。斉明天皇は詔して救援の決意を使者に伝えた。661年1月斉明天皇は難波を出発し筑紫へ向かう。7月天皇は朝倉宮に崩じ、中大兄皇子が称制。8月救援軍を編成し豊璋を百済に送還。662年豊璋は百済王として即位し、百済復興の軍は勢いづいた。

3.大敗北を喫す
 663年8月白村江の戦。倭の兵2万7000は、大船団を組んで渡海。錦江河口、白村江において、唐の水軍と激突し、壊滅した。
 日本書紀は、「官軍やぶれぬ。水に赴きて溺れ死ぬ者おおし。舳艫めぐらすことを得ず。(たちまちに敗れ、水に落ちて死ぬ者が相次いだ。船の舳先を廻らすこともできなかった。)」と伝えている。
 旧唐書には、「仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷,焚其舟四百艘,煙焔漲天,海水皆赤,賊大潰。(旧唐書列傳第三十四劉仁軌)」船400隻を焼き、炎は天を覆い、海は血に染まったとある。
 敗戦の中、豊璋は高句麗へ亡命した。9月24日弖礼城(てれさし)に集合した百済の遺民達は翌25日に船で日本に向かった。(日本書紀)

4.白村江の不思議
(1)戦前の不思議
 
超大国唐と、隆盛期にある新羅との連合軍を相手に、如何に仲が良かった百済のためとはいえいったんは亡んだ国の再興のために、下手をすれば亡国の憂き目に遭いかねないような救援軍の派遣を何故決めたのであろうか。何と言ってもこれが最大の謎である。
 658年(斉明4年)阿倍比羅夫は、船180艘を連ねて日本海側から北方の蝦夷・粛慎の討伐を開始した。百済と新羅とが戦火を交えているときによくもこんな大軍を奥州に派遣できたものである。660年には3度目の蝦夷征討を行っている。日本との関係深く、後には当時の超大国唐を相手にその復興をかけて援軍まで送った百済が660年に唐の大軍によって崩壊したまさにその年、超大国唐と日本と伝統的に不仲な新羅がすぐそこに迫っているとき、
なぜ朝廷は3度目の蝦夷征討を行わなければならなかったのであろうか

(2)戦中の不思議
 日本の水軍はあまりにも簡単に敗れている。戦いの場所は百済である。土地不案内であったとはいえないであろう。また少なくとも百済の兵は唐と新羅の武器や戦術についてこれまでの経験から熟知していたはずである。
 軍船の向きも変えられないほどの大敗北を喫し多くの戦死者と捕虜をだしながら、
どういう訳だか百済人達の亡命用の船はちゃんと用意してあり、唐や新羅の追っ手をかいくぐって船出している。百済の遺臣はすなわち戦犯だからそれを受け入れたとなれば益々唐に対してケンカを売ることになるのではないか。これでは、百済人を無事日本に迎えるためにのみ行った戦争のようではないか。

(3)戦後の不思議
 白村江での勝利の9ヶ月あと、唐の副将、
郭務ソウが日本に派遣され七ヶ月間滞在している。
 来朝の時、郭務ソウは「今われわれの人数も船も、とても多い。このまま博多にいけば防人たちが驚き立って、戦ってくるだろう。船は47隻、その人数2,000人、いま比知嶋に停泊しているので我らが来朝の意を披き陳そう」と大和に使いをよこした(日本書紀)。
47隻2,000人の大艦隊を率いて郭務ソウは何をしに日本に来たのであろうか。
 郭務ソウが九州に滞在している間に天智天皇が崩御した。朝廷は郭務ソウに鎧、甲、弓矢を贈るとともに、ふとぎぬ1673匹、布2852端、綿666斤を贈っている。その後郭務ソウは帰途につく。郭務ソウ滞在中に天智天皇が亡くなったのは偶然であろうか。そもそも、郭務ソウは何故に長期間滞在したのか。

5.筆者の見解
(1)戦前の不思議
 やはり
百済と日本の支配層とは「血」で繋がっていたのではないだろうか。そう仮定すれば、無謀な冒険に打って出たことが理解出来る。それ以外の仮定だと、当時の指導者が「アホ」だったになってしまうと思う。
 
阿倍比羅夫は蝦夷の奴隷兵を獲得するために北方を討伐したのであろう。東国人や蝦夷の兵の強さは後の時代に置いても繰り返し語られる日本の常識であった。また防人が九州の地元民から選ばれなかった理由は、一つには勇敢さが足りないと言うこともあろうが、血縁関係の濃さゆえの敵との通謀を恐れたためであろう。白村江の戦いにおいても同様で、新羅や唐との血縁関係皆無の蝦夷が適当との考えがあったのではないか。

(2)戦中の不思議
 あまりにあっけない敗戦は、作戦がまずかったと言えばそれまでだが、日本兵の戦意が低かったためではないだろうか。さらに、
日本兵は船になれていなかったのではないか。奴隷兵の戦意はそれほど高くないのが本来だし、いつの時代も蝦夷は陸上の戦いにおいて強さを発揮している。船の操作法や船戦について未熟なまま戦いに臨んだのではないか。
 白村江の戦死者や捕虜は元々蝦夷の奴隷兵であるから、勝てばそれに越したことはないものの、とりあえず唐と新羅の連合軍を引きつけておいてくれればそれでよい。その間に大事な百済人を日本に避難させようとの考えが当初からあったのではないだろうか。

(3)戦後の不思議
 
郭務ソウは当時の大唐国のマッカーサーだと考えればよく理解出来る。郭務ソウは「進駐軍」をつれて九州を占領していたのであろう。
 唐軍進駐の間に天智天皇が亡くなったのは偶然かも知れないし、郭務ソウの意を受けた日本側の誰かが暗殺におよんだのかも知れない。
 贈り物の数に端数がありすぎるのは、とにかく穏便にお帰り願いたいとの朝廷の意思であろうか。長期にわたる進駐によって郭務ソウは、何を日本に要求してきたのであろうか。新羅を挟み撃ちにするための同盟締結との見方もあるが、日本の対外戦遂行能力を低下させるとか、マッカーサーの民主化ではないが、
日本の政治社会構造を唐にとって都合の良いものにするとかの使命があったのかも知れない



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