切腹の図 武士は本当に腹を切ったのか

 大河ドラマや時代劇を見ると武士がそこらじゅうで腹を切る。それもちょっとしたことでやたら切りまくる。本当に武士はそんなに腹を切ったのだろうか。生きとし生けるものは元来、生命に執着するのが当たり前で、人間だってよっぽど病的な状態になって初めて自殺できるものだ。だからこそ、死を覚悟して戦ったもの、戦場で自分の命を捨てて味方のために尽くしたものがたたえられるのである。いわゆる軍神と呼ばれる人たちは皆そうである。珍しいことだから「神様」になれるので、どこにでもあることならそうはいかない。
 切腹だって同じ事である。幕末の志士で土佐藩の武市半平太の死に方が立派だったとか、乃木大将が明治大帝に殉じた際の死に様こそ大将の高潔な人格を表すものだとか、さらには切腹が許されなかった吉田松陰が斬首の際、従容と死につき首切り朝右衛門が感動したとかと言われるのもそれだけ稀有のことだったためだと思う。以前から筆者はテレビや映画のあの芝居がかった切腹シーンに疑問を抱いていたのだが、さすが専門の学者は真実を淡々と述べていた。
 「庭に砂を敷き、その上に畳を二枚重ね、緋毛氈・白木綿の布などでそれを被って処刑の場とした。処刑は葬儀と同様に夕方から夜にかけてなされ、受刑者は浅葱無垢無紋の水浅葱裃を着て着座すると、正副二名の介錯人が姓名を名乗って一礼し、刀を抜いて受刑者の背後に立つ。他の役人が奉書紙に包んだ九寸五分の
木刀を載せた三方を受刑者の前に置く。木刀の代わりに、扇や本物の短刀を置くこともあった。副介錯人はその位置を正すとともに受刑者の服装を改めるのを手伝う。受刑者が肩衣を脱ぎ、三方の木刀に手をかけようとして首を前方に伸ばした瞬間、正介錯人が刀を振って首を切り落とし、副介錯人が首を取ってその横顔を検使に見せる。これで検使が刑を見届けたことを述べて執行が終了する。」「刑罰としての切腹は、明治六年に廃止されるが、元禄十五年から幕末まで一六〇年あまりの間に江戸小伝馬町の牢屋で執行された切腹は約二〇人で、予想されるほど多くの例があったわけではない。」「切腹といえども実際には腹を切らない方法が一般化していたのである。」
 これは、天理大学教授の飯島吉晴先生が、日本医事新報に書かれたものである。これなら筆者だって納得できる。いくらNHKの番組だからといって何でもかんでも信じてしまってはいけない好例である。人間、時代や価値観が変わってもその本質的な欲望は変わるはずもない。自分の命を大事に思う気持ちがそう易々と変わろう筈もない。人間のありのままの姿を認めた上で、常識でもって判断することが歴史を考えるときには大事だと思う。



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