鎖国とは何か
「鎖国」とは、江戸幕府が行ったオランダおよび中国以外の国との外交通商を禁じる政策であると言うのが以前の教科書歴史の理解である。最近ではさすがにこの様な記述はなくなったようで、鎖国とは、(1)日本人の海外渡航の禁止および(2)四口での管理貿易体制(対中国・オランダ−長崎、対朝鮮−対馬、対琉球−薩摩、対アイヌ−松前)であるとの理解が一般的になってきた。
長崎出島 |
ところで「鎖国」という言葉は決して幕府自身が用いた言葉ではない。享和元年(1801)に志筑忠雄『鎖国論』で初めて用いられ明治期以降に一般化したものである。寛永12年(1635)の措置を「海禁」としたのも、嘉永2年(1849)に成立した『徳川実記』からである。江戸後期、欧米諸国の日本への接触が頻繁になってくる時期にはじめてそれ以前の日本の状態をこのようにとらえようとして用いたのである。
何故鎖国が可能であったか
何事についてもそうであるが、動作の主体がある行動を起こそうとする意志を有するのみでは行動は起こらない。その行動を起こしうる能力を持つことが必要である。鎖国という行動を幕府がとったのは、鎖国しようという幕府の意志があったというだけでは足りず、鎖国を可能にする力が幕府にあってはじめて鎖国ができたのである。鎖国を可能とした幕府の力とはいったい何か。
まず国内的な力であるが、鎖国に反対する国内勢力を押さえる圧倒的な武力を幕府は有していなければならないし、なにより鎖国に耐えられるだけの経済構造を幕藩体制が持っていることが不可欠である。
まず武力についてであるが、島原の乱の際に幕軍は結構苦戦し、オランダに依頼して海上から一揆軍の立てこもる原城に艦砲射撃をさせているくらいである。この時点では圧倒的武力にまでは到っていなかったと思われるがそれでも他の諸侯にくらべて優位に立っていたことには疑問の余地はない。
鎖国に耐えられるだけの経済構造とは、鎖国を行っても自給自足でやっていくことができるということであろう。戦国時代に城郭の整備などを通じて発達した土木技術のおかげで湿地帯を水田に変え、その後の太閤検地と兵農分離によって、農民が稲作に専念するようになった。さらに、新しい農機具の発明などがあり、近世初期までに農業生産力は飛躍的に向上した。この様な背景があったからこそ徳川幕府の米本位制経済の農業国家建国が可能であったのである。
次に対外的な力である。ヨーロッパ諸国の軍事技術が日本を上まわっていたのは別に幕末になってからではない。上述したが、島原の乱の鎮圧の際にオランダの船に助力してもらっていることでも明らかなように、その当時から軍事技術はヨーロッパが上であった。鉄砲や大砲の製造しかり、造船技術然りである。しかし、鄭成功がオランダの巨大軍艦に対し、小さなジャンクで台湾からオランダ人を追い出したように、戦いは武器の性能だけで決するわけではない。兵員や食糧の補給などの兵站線の確保が重要であるから、万里の波瀾を越えて来なければならないヨーロッパ諸国の攻撃を防ぐ力が、幕府には十分あったと思われる。当時の日本には、戦国の世を経て戦うことに熟練した戦士が大勢いたし、武器についても日本の鉄砲保有数は世界有数であったのである。
以上のような日本国内の状況と日本をとりまく国際状況が日本に鎖国を行う能力を与えていたのである。しかし、産業革命により状況は大きく変わる。蒸気機関の発明、蒸気船の開発という「技術革新」がその後の世界情勢を大きく変えていく。「黒船」は大勢の兵隊と武器を大量に万里の果てに運んでしまうからである。それが幕末になって日本が鎖国を継続できなかった最大の理由である。
鎖国の動機は何か
以前の学校歴史では鎖国の動機について、「キリスト教の排除」のみをあげていた。つまり、徳川将軍を支配体制の頂点とする封建制度のもとでは神の前の平等を説くキリスト教は、統治の妨げとなるからだといい、また、当時スペインやポルトガルは「宣教師を先頭に」植民地化を進めていたからだとの説である。 しかし、キリスト教国にも王様もいれば貴族も奴隷もいるのであるから一概に統治の妨げになるとも思えないし、織田信長などは仏教勢力を押さえるためにキリスト教を利用するなど統治の妨げどころか助けにさえなりうるものである。キリシタン大名が大勢いたことでも、キリスト教が統治の妨げになるというのはいささか疑問である。
スペインやポルトガルの侵略のやり口についてはその通りで、長崎などは教会領になっており現実に侵略の危険があったから、鎖国の動機の一つにはなりうると思う。慶長17年(1612)9月29日にはオランダ国王が家康にポルトガルの密謀を密告しているが、オランダが「スペインやポルトガルなど旧教国はキリスト教を利用した植民地拡張政策をとっている」と繰り返し中傷したことが大きかった。しかし、鎖国の動機はこれだけであろうか。キリスト教の伝道を排除するという消極的な理由ではなくもっと積極的な理由はないのであろうか。
鎖国が幕府にもたらすメリット
当たり前のことではあるが、どんな国の支配者たちも自らの権力の維持・強化を最優先する傾向が強い。海外に開かれた社会よりも閉ざされた社会の方が管理しやすい。そのため、社会を安定させ自らの立場を維持するために、自分の国を一つの閉鎖系にしてしまおうと考えるのは自然なことである。だから国家はどんな時代でも程度の差はあれ、必ず対外管理体制をしくものである。江戸幕府の鎖国はその典型的で極端な例の一つであるに過ぎない。中国や朝鮮でも、同様に鎖国体制をとっていたことが、このことの何よりの証である。明は、服属した外国からの朝貢を通じてしか貿易を認めない朝貢貿易体制をしくと同時に、中国人の海外渡航を禁止する海禁政策をとっていた。しかし、明も中期になると、浙江・福建方面に対する倭寇、広東方面へのポルトガルおよび南洋諸国の来航と従前からの朝貢という三種の貿易が行われるようになっていた。
さて、当時の日本は世界有数の銀の産出国で諸外国との貿易が増えるにつれて銀が大量に国外に流出し国内経済にも影響を与えていた。さらに、諸藩のなかには貿易によって富を築こうとする動きが見られた。これらを禁止する鎖国政策は幕府の支配をより強固にするものであった。
「鎖国」は「孤立」にあらず
鎖国という言葉は、いかにも当時の日本が世界の大勢から孤立していたような印象を与える。しかし、鎖国は決して孤立ではなかった。国を完全に閉ざしてしまえば、侵略される危険は減少し、国内統治も一時的には容易になるかも知れないが、国際情勢についての情報の入手や輸入以外に調達不可能なものや国内生産が間に合わないものの入手が困難になる。それでは支配は持続しない。
そこで幕府は「四つの口」を通して、中国やオランダ、朝鮮、琉球、アイヌとの関係を維持しようとした。「四つの口」体制を通して、幕府は中国の絹や蝦夷地の海産物といった輸入品だけでなく、日本をとりまく海外事情に関する情報も入手できた。長崎の出島では中国とオランダだけを相手に管理貿易が行われていたが、入港する船には世界情報の提供が義務づけられていた。このように幕府は限られた国々との貿易を介しながらも世界情勢を把握していたのである。さらに、矢切止夫は、鎖国とは幕府が鉄砲の火薬原料であるチリ硝石を独占することによって、他の大名に比して圧倒的な軍事的優位を確保することを企図して行った政策であり、それによって徳川の天下は維持されたのだという。
幕府のみが貿易のもたらす富と情報を独占することによって、支配を容易にすることができた。また、朝鮮や当時は外国と認識していた琉球の間に結んだ外交関係は、幕府支配の正当化イデオロギーとしての役割を果たした。海外からのモノ・情報・イデオロギーによるサポートは幕府の存続にとって不可欠であり、それなしでは自らの立場を維持することは出来なかったのである。
何故オランダなのか
当時、スペインはメキシコ銀山の開発が本格化したことにより、日本進出に対する魅力を感じなくなっていた。またイギリスは東南アジアでのオランダとの争いに敗れて後退していた。このようなオランダやポルトガルなどの当時の西ヨーロッパの強国の政治的確執が日本の対外政策に影響を及ぼした。
『長崎聞役日記』によると、「日本の朱印船貿易はポルトガルとの友好関係により支えられている面があった。だれにも攻撃されずに東南アジアまで行けたからこそ、豊富な物資を日本に持ち帰ることができたのである。それが、強力なスペイン・ポルトガル両国と戦争状態になることによって、保証されなくなるのである」。
島原の乱に懲りた幕府はポルトガルからオランダに乗り換える。大老酒井忠勝を中心とする幕閣がオランダに対する聞き取り調査を行い、オランダはスペイン、ポルトガル両国を押さえつける力があると判断したためである。1600年代はオランダの黄金時代だったから、オランダの傘の下に入り東南アジアへのシーレーンを確保することにしたのである。それでも朱印船貿易への妨害に不安があったのであろうか、幕府評定所大寄合(寛永16年(1639)5月)での諮問をまとめた酒井忠勝の結論は、「我々は、他の人の奉仕を受けることができる限り、日本の船を国外に渡航させる必要はない」であった。
以上のように、鎖国体制は段階的に進められ、寛文12年(1672)閏6月25日 幕府は、外国渡航及びキリスト教を禁制にし、寛永16(1639)年にポルトガル船の来航を禁止することで完成をみた。そして、ついには文政8年(1825)2月18日には無謀ともいえる沿海諸大名に「異国船打払令(外国船に対する無差別砲撃)」をだすことになるのである。
参考文献
『長崎聞役日記―幕末の情報戦争』山本 博文、ちくま新書