皇室に姓はあるのか
1.万邦無比
日本人なら誰でも皇室に姓がないことを知っている。帝室王室に姓がないというのは、世界的に見て全く希有なことで、考えてみれば不思議なことである。日本の皇室が姓を持たない理由については一般に以下のように説明される。
神話の時代から一つの皇統が続く我が国では、『万世一系、皇統連綿』の思想に基づいて、皇室はオンリー・ワンでなければならず、姓はあってはならないものとされた。いわば、姓を持たないことで特別な地位を確保してきたのである。天皇、親王、諸王が支配する側で、姓を与えられる側が支配される側とされた。たとえば、平安時代の歴史書『大鏡』に、退位させられた陽成天皇の後継者に左大臣源融が皇位につきたいと主張したが、藤原基経は一旦姓をもらって臣下になった以上は位につけない、と言ってその主張を退けたとある。
2.皇室の姓は「倭」か
『宋書』文帝紀元嘉二十八年の条には、
「秋七月甲辰、安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍。」(秋七月甲辰、安東将軍倭国王倭濟、安東大将軍に進号す。)
との記述があり、倭王である倭濟とあることから倭王の姓は「倭」であることが確認できる。この様な例は他にもあり、百済王の「餘」姓は夫餘族の略、高句麗王の「高」姓は国名にちなむものと推定されている。しかし、ワカタケル大王(倭王武)の名を刻んだ稲荷山鉄剣には、主人公ヲワケ臣の氏の名はない。当時の豪族はまだ氏の名を世襲していなかったのであろうか。
3.倭人には元来「姓」がない
我々はなにげなく、氏族の名前と個人名を連称する習慣は世界中で発生したと思っているが、「姓=氏族の名」と個人名とを連称する制度は古代中国と古代ローマで発生し波及したものだそうである。朝鮮諸国や倭など東アジアの国々は中国との交渉のなかで中国の「姓」の制度を継受したのである。
倭王武の朝貢を最後に、一世紀あまりの間、中国王朝へ朝貢を行わず冊封も受けなくなった。西暦600年、倭は随に使節を派遣した。
『隋書』列傳・東夷・倭國に、
「開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩?彌、遣使詣闕。」(開皇二十年(600年)、倭王あり。姓は阿毎(アメ「天」)、字は多利思比孤(タリシホコ「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ「大王」)と号す。使を遣わして闕(みかど)に詣る。」
『新唐書』列傳・東夷・日本には、
「其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲凡三十二世、皆以尊為號、居筑紫城。」(その王の姓は阿毎氏。みずから言う。初主は天の御中主と号す。彦瀲にいたるおよそ三十二世。みな尊をもって号とし、築紫城に居る。)
とあり、倭王の姓を「アメ=天」であると伝えている。
以上のことから、天皇が姓を持たないことについては、以下のような説明が可能である。
元来、我が国では、中国以外の東アジア諸国と同様に氏族の名と個人名を連称する制度や習慣は存在しなかった。それどころか、中小の豪族や庶民には氏族の名すら存在していなかったのかも知れない。しかし、中国の冊封体制下に入るためには姓を名乗る必要があった。そこで「倭国」にちなんで姓を「倭」とした。しかし、遣隋使の派遣以後、倭は朝貢はしても終始一貫して冊封を受けようとはしなかった。よって冊封用の姓を名乗ることもなかったが、姓を持たないことを不審に思った中国側から質問されて、苦し紛れに「姓はアメである」と答えたりした。一方で中国との交通のなかで姓の制度は国内に広がっていった。天皇は自らは姓を持たず、氏の名と姓(かばね=身分と職制を表す)を臣下に与えるという制度はここから生じた。蝦夷、隼人や大陸からの渡来人は、倭風の氏姓をもらうことによって朝廷の支配下に組み入れられた。氏の名や姓(かばね)を与えることは天皇の権限であり、逆に氏姓を名乗ることは天皇支配を受け入れることを意味していたのである。
4.皇室は太伯の末裔か
平安時代の『日本書紀私記』に日本書紀の講義のなかで、「この国が姫氏とよばれるのはどうしてか?」と言う問いに対して、講師が「始祖の天照大神 が女神、神功皇后が女帝だったから」との問答が記録されているそうである。
周や呉の姓は「姫」氏である。呉の太伯はこの家の出であり姫氏と思われていた。「倭人」を太伯の裔とする説は、『魏志』「倭人伝」より早く成立し魏志の母体とされる『魏略』の逸文、および『晋書』『梁書』に見られる。
『晋書』「列傳・四夷・東夷・倭人」には次のように記されている。
「男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後。」(男子は大小と無く、悉く黥面文身す。自ら太伯の後と謂ふ。)
『梁書』「列傳・諸夷・東夷・倭」にも以下の記述がある。
「倭者、自云太伯之後。俗皆文身。」(倭は自ら太伯の後という、俗みな文身す。)
倭人達は、魏に対して「我々は太伯の苗裔すなわち姫氏である」と主張していたのであろう。『晋書』などを読んでいた日本の知識人は、『日本書紀』(720年完成)の成立以前から「天皇姫氏説=太伯末裔説」を知っていたと思われる。そこで、『日本書紀』には採用されていないものの、上記のような問答があったのであろうか。
さて、おそらく後世の仮託であろうが、梁の武帝(在位502-549)の尊信を受けた禅僧・宝志(418-514)が日本のことを予言したとされる「野馬台詩」なるものがある。
東海姫氏の国、百世天工に代わる
右司輔翼をなし、衡主元功を建つ
初めに治法の事を興し、終わりに祖宗を祭るを成す
本枝天壌に周く、君臣始終を定む
谷をうずめて田孫走り、魚かい羽を生じて翔る
葛後干か動き、中微にして子孫さかんなり
白龍泳いで水に失い、きん急にして胡城に寄す
黄けい人に代わりて食し、黒鼠牛腸を喰らう
丹水流れつきて後、天命三公に在り
百王流れことごとくつきて、猿犬英雄を称す
星流れて野外に飛び、鐘鼓国中にかまびすし
青丘と赤土と、茫々として遂に空しくなる
周王室(姫姓)の流れをくむ東海の国は百代にわたって栄えるであろう。しかし、戦乱の世に入るや、皇室は絶え、かつての大臣、内実は猿や犬のような輩が国を奪って相争う。その結果、国中ことごとく焼土となり、あとかたもなく滅びてしまうであろう。
なにやらいかがわしいが、日本が姫氏の国であるとの説が土台になっている。
これに対して、南朝の重臣、北畠親房(1293〜1354)は、「太伯末裔説」を否定し、『神皇正統記』において、以下のように述べている。
「異朝ノ一書ノ中ニ、『日本ハ呉ノ太伯ガ後也ト云。』トイヘリ。返々アタラヌコトナリ。」
家康の儒学の顧問であった朱子学者林羅山は、日本はけっして「夷狄」ではなく、中華と同等な文化国であり、日本の皇室は中国の聖賢の裔ゆえに尊貴であるという立場に立ち、『神武天皇論』において、日本の皇室の祖神がその本源を溯って見れば太伯に当たるという説をのべている。
余竊かに圓月が意を惟ふに、按ずるに諸書は日本を以て呉の太伯の後と為す。夫れ太伯は荊蠻に逃れ、髪を断ち身を文きて交龍と共に居る。其の子孫筑紫に来る。想ふに必ず時の人以て神と為ん。(中略)姫氏の孫子本支百世、万世に至りて君たるべし、亦た盛んならずや。彼の強大の呉、越に滅ぼさるを見ると雖も、而して我が邦の宝祚天地と窮まり無し。余是に於て愈々太伯の至徳たるを信す。
5.倭人は呉人
『史記』世家・呉太伯に以下のような記述がある。
呉太伯、太伯弟仲雍、皆周太王之子、而王季歴之兄也。季歴賢、而有聖子昌、太王欲立季歴以及昌、於是太佰?仲雍二人乃・荊蠻、文身斷髮、示不可用、以避季歴。季歴果立、是為王季、而昌為文王。太伯之・荊蠻、自號句呉。荊蠻義之、從而歸之千餘家、立為呉太伯。
呉の太伯と弟の仲雍は、ともに周の太王(=古公亶父)の子であり、周王季歴の兄である。季歴には賢明な上に聖人となる瑞祥をもってうまれた昌という子があった。太王は季歴を周王として立て、ついで位を昌に継がせたいと思った。そこで太伯と仲雍の二人は南方荊蛮の地にはしり、入墨をし断髪して野心のないことを示し、季歴から遠ざかった。はたして季歴が即位したが、これが王季であり、昌がのちの文王である。太伯は、荊蛮の地に出奔してから、みずから国号を「句呉(こうご)」と称した。このような事情を知った荊蛮の人々は、彼を仁義の人と認め千余家がその義をしたって従属し、彼を「呉の太伯」と称揚した。
江南の呉、つまり今で言う江蘇省南部や浙江省北部のあたりと倭とは古来より深いつながりがあった。倭の五王は北朝ではなく南朝の册封を受け、「呉音」は漢音よりも先に日本に伝わり今に至っている。さらに入れ墨をする習慣など魏志が伝える倭人習俗と同じである。
呉は闔廬、夫差の時代に栄華を極めたが、越(句践)に攻め入られ滅亡した。秦の始皇帝が派遣した徐福もこのあたりから出発した。徐福は齊(山東省)人であったという。江蘇省連雲港市かん楡県金山郷で徐福の故地である徐阜村(徐福村)がある。ここは戦国時代には齊に属し、秦の時には琅邪郡に属していた。山東半島南の付け根にあった琅邪は、初め呉が副都を置き、後に越が遷都した、華北と華南を結ぶ港町として古くから栄えている所だった。もともと呉越は王朝としては敵対しつつも近縁の民族であり呉が越に滅ぼされてからは、呉人は越に吸収されたと思われるから、琅邪には多くの呉人がいたであろう。そのなかに、太伯の子孫がいてもおかしくはない。徐福は良家の童男童女をつれて東海に旅立ったとあることからその中に、太伯の裔=姫氏がいたことも十分にあり得ることである。
思うに『晋書』に記述された魏に対する倭人の主張は正しかったのではないか。では、なにゆえ倭の五王は南朝に対して「姫氏」を名乗らなかったのだろうか。姫氏を名乗ることが憚られた、あるいはかえって不利であったのであろうか。いずれにしても、国内的には自分たちが大陸から渡来したという事実を忘れた方がよいとの考えがあったのではないかと筆者は想像している。中国と外交関係を結び、国内各地に命令を伝達するために必要な漢字を当時の倭人は当然知っていた。しかしそれにもかかわらず、甕棺にも、古墳にも墓誌を残さなかったように。
参考文献
『日本の古代〈1〉倭人の登場』森 浩一編 中公文庫
『名字と日本人―先祖からのメッセージ』武光誠 文春新書
『日本の誕生』吉田孝 岩波新書