上杉謙信は本当に単騎敵陣に切り込んだのか

頼山陽の有名な漢詩に、
 「題不識庵撃機山圖・・・不識庵機山を撃つの図に題す」
(川中島)、と言うものがある。


鞭声粛々夜渡河
暁見千兵擁大牙
遺恨十年磨一剣
流星光底逸長蛇

べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる
あかつきにみるせんぺいのたいがをようするを
いこんじゅうねんいっけんをみがき
りゅうせいこうていちょうだをいっす
(註1)不識庵 謙信。機山 信玄。
(註2)大牙 大将の旗竿に象牙を飾ることからいう。
(註3)長蛇 信玄。

信玄に斬りかかる謙信
 上杉謙信が武田信玄の陣中にただ一騎で突撃し、信玄めがけて太刀を振り下ろしたが、さすがは信玄、鉄製の軍配で太刀を受け止め難を逃れたというものである。幕末の大学者で「日本外史」の著者頼山陽が「不識庵(謙信)機山(信玄)を撃つの図」を見てこの詩を作ったという。詩吟でおなじみのこの詩の情景は本当にあったことなのだろうか。
 大抵の人はテレビや時代小説に描かれたこのシーンを史実であると信じて疑ってはいない。いわば歴史の常識の一つである。筆者も当初、何の不思議もなくこの常識を受け入れていたが、ある時ふと疑問に思ったので、周囲の人に「いつの時代にも大抵の指揮官は後方で指揮を執っている。ナポレオンが陣頭で指揮をとり兵士に大きな驚きと感動を与えたと聞いたことがある。それくらい珍しいことだったと言うことだ。現代戦争に置き換えて、小隊長や中隊長ならいざ知らず、一軍の総司令官が機関銃を持って撃ち込んでくるなどということは、なんぼ何でも絶対に想像できることではない。」と言ったところ、「昔はそんな事もあったのだろう。」とか、「それが大和魂じゃないか」等といわれてそうかも知れないなあと不承不承納得していた。
 しかし、戦国時代、一国の主が敵に討たれれば災いは当人だけにとどまらない。家臣とその家族は殺されるか、職を失って路頭に迷う。そればかりではない領民にも災いは及んでくる。米や麦などの農作物をぶんどられたあげく、敵の雑兵に捕まってしまえば奴隷として売り飛ばされてしまうもし謙信が伝えられるように有能な指揮官であればそのような危険をあえて行うわけはないし、もしそのような馬鹿げた振る舞いを本当にしたのであれば謙信は無能な武将であるといわなければならない。
 更に、日本刀といえば「折れず、曲がらず、良く切れる」と言われるがこれは全く事実に反する「宣伝文句」であって、実際には折れたり曲がったりのオンパレードになるらしい。しかも、日本刀は刀身と柄が「目釘」と呼ばれる竹製の棒で固定されているだけであるからすぐに目釘が折れて使い物にならなくなる
という。こんな劣った武器で敵の大将を討ちに行くなど非常識である。
 日本では弥生時代の昔から「刀剣」は呪術的、宗教的、あるいは精神的な意味を持つものであったらしく神社のご神体にも剣が多く見られる。しかし武器としてはせいぜい護身用でしかない。どうせやるなら当時の主力の武器である「槍」を用いるべきである。この事からも川中島の一騎打ちなど全くの作り話でしかないと断定できると思う。



このボタンを押すとアドレスだけが記された白紙メールが私のところに届きます。


目次に戻る

表紙に戻る