犬を食っていた日本人

犬棒カルタ 「犬も歩けば棒に当たる」・・・犬が油断して町を歩いていたら、棒で打ち殺されて食われてしまう?

1.東アジアは食犬文化圏
 犬は、狩猟の助けをしたり、番犬として働いたり、さらにはペットとして話し相手になったりと、人間にとって相性の良い伴侶である。たしかに、洋の東西を問わず人間は昔からいつも犬を伴っていた。
 さて、昨年開かれたサッカーワールドカップのときに、ブリジッド・バルドーさんやFIFAの会長が「ワールドカップ期間中は犬の肉を食べるのをやめさせてほしい」と、韓国サッカー協会の会長に言って物議を醸した。それより前の1988年ソウルオリンピックの時にも、ブリジット・バルドーさんは韓国の大統領宛に「犬肉を食べるような野蛮なことをしないで欲しい」と、手紙を送り、欧米のマスコミは韓国を「犬を食べる野蛮国」と書きたてた。しかし犬を食べるのは別に韓国だけではない。筆者の知るところでは、中国やベトナムでも犬を食う。
要するに東アジアには広く犬を食べる文化があるのである。
 孔子の継承者たちによってまとめられた周代の国家組織の諸官職の職務内容を詳細に記した『周禮』(しゅらい)の秋官疏に
「犬有三種、一者田犬(猟犬)、二者吠犬(番犬)、三者食犬。」とある。『本草綱目』には「田犬長喙善獵、吠犬短善守、食犬體肥供饌。」とあり、中国には古代から、猟犬と番犬の他に食べる為の犬がいたのである。

2.縄文犬と弥生犬
 日本犬は、「南方系」と「南方と北方との混血系」とに大きく分かれるという。縄文時代の日本列島樺太、千島には、体高40cmくらいの小型で、キツネのような顔立ちをした「縄文犬」がいたのだが、渡来してきた弥生人が連れてきた犬と混血し、やがて、柴犬、紀州犬、甲斐犬、四国犬などに分岐するもとになる、前頭部にくぼみを持ち、頬骨が張り出した「弥生犬」が形成されたらしい。一方、そのまま沖縄で生きてきた犬は、琉球犬の祖犬となり、北海道の犬は北海道犬の祖犬となった。北海道犬と琉球犬が近縁であることが、血中タンパク質の遺伝子組成を比較した最新の調査で確認されたという。
 「動物考古学」の西本豊弘・国立歴史民俗博物館教授によれば、犬を見ていくことで、歴史の中での日本人の動きを探ることができるという。紀元前7000年から8000年くらいの縄文時代の犬の骨が、愛媛と神奈川の遺跡で見つかっている。当時の犬が人間と同じように埋葬されていたことから、
縄文時代人は犬をとても大事にしたらしいことがわかる。縄文犬は狩猟犬として扱われていたようであるが、狩猟中に怪我をして骨折した犬も多く役に立たなくなっても大切に飼育されていたらしい。
 しかし、弥生時代になると犬に対する扱いは激変する。犬の種類も代わり、ほとんど埋葬されなくなり、骨もバラバラの状態で出土し、解体痕が認められる。要するに食料とされていたのである。このことからも、弥生人が縄文人とは別の民族であったことが推測される。
弥生人は、水田稲作農耕の技術だけでなく、食犬習慣も持ってきたのである。狩猟民には貴重な存在であった犬も、農耕民にとっては番犬か、食用犬としてしか役に立たなかったのであろう。

3.肉食を続けた日本人
 「狩猟採集の縄文人は肉を食べていた。仏教伝来により、獣を殺してその肉を食すことは禁じられた。明治以前の日本社会は全国的に獣肉食に対する強いタブーがあった。仏教の不殺生の教えと神道的な穢れ意識が融合した結果、獣肉を食べることは穢れとして忌避されたからである。ようやく明治維新によって、奈良時代以降行われていなかった肉食が解禁された。」というのが一般的な理解であろう。明治天皇が率先垂範して牛肉料理を食べてより、牛なべが大流行して文明開化の代名詞にもなったともいう。しかし、そこは「建前」と「本音」を使い分けるのが自慢の国民性を遺憾なく発揮して、
日本人は陰では肉をしっかり食べつづけていたのである。
 676年(天武天皇4年) 4月17日の肉食禁止の詔には、
庚寅、詔諸國曰、自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽、及施機槍等之類。亦四月朔以降、九月卅日以前、莫置比彌沙伎理・梁、且莫食牛馬犬@鷄之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。
とある。
 この詔は、牛、馬、犬猿、鶏の五畜の肉食を禁じている。その理由は「犬は夜吠えて番犬の役に立ち、鶏は暁を告げて人々を起こし、牛は田畑を耕すのに疲れ、馬は人を乗せて旅や戦いに働き、猿は人に類似しているので食べてはならない」という『涅槃経』の教えによったものらしい。
 しかし、ここで重要なのは、肉食禁止には期間が設定されていること、また食べてはいけない肉の種類が五畜に限られていることである。そして何よりも重要な点は、
禁止する詔が出たと言うことは社会の現実として禁止されるべき行為が行われていたということである。この禁止令は農繁期における家畜の利用という功利的な視点に基づいて出されたものではないかとの考えもある。また、当時行われていた神道や稲作農耕の儀礼との絡みによる肉食禁止とも考えられる。原田信男氏によれば、日本においては、もともと稲作と動物の肉とは対立するものではなく、動物の神への供犠は農耕の推進につながるとされていた。それが律令体制という中央集権的国家建設の過程で稲作に害をなすものとの思想に転換したという。律令国家は、水田稲作を基盤にすえ、天皇を米の最高司祭者と位置づけた。そして、仏教思想で人民をマインドコントロールしようとする。そこでは、米と肉とは対極にある食物ととらえられ仏教道徳の殺生戒によって肉食は排除されるべきものとなった。しかし、上述のように肉食禁止の詔は絶対的肉食禁止令ではない。ここには水田稲作の期間という限定があり、旧石器時代以来もっとも好まれた鹿と猪がでてこない。しかも肉食の禁止は徹底しなかったようで、その後も肉食禁止令が繰り返し出されている。
 平安朝初期の嵯峨天皇の頃の記録に「本日の豊明(とよのあかり)は漢方を似てす」とある。帰国した留学僧を招いての宮中の豊明は中華料理だった。中華料理には肉料理は不可欠であるが、一番肉を食ってはいけないはずの僧を招いての宴会においてすら肉を出しているのであるから、肉食を気にしていたとは思えない。しかし、その後どうしたわけか、肉食の禁忌は僧尼から貴族におよび、最後には庶民へと、長い歳月をかけて徐々に広がっていった。
 しかし、中世に至っても肉食の絶対的禁止はなされてはいない。1487年に成立した『神祇道服忌令秘抄』では「四足物食用之事。鹿猪猿狐里犬ハ七十日憚之。合火ハ五十日。又合火ハ卅日也。此日限神社へ參詣スベカラズ。」とある。これも、裏を返せば70日を経過すれば神社に参詣してもよいことになる。これ以外にも数多くの服忌令が出されており、肉食が穢れであるとの思想は完全には定着しなかった可能性が高いと思われる。
 室町時代、日本にきたクラッセの「日本西教史」には、「富者は尤も美食に誇り、その食卓に肉菜をうずたかく盛り立て、恰もエジプトのピラミッドの如し。また肉叉、匙、小刀を用ひず、唯箸を用ひて肉叉に代ふ」とある。南蛮貿易がさかんになると、肉食の風が輸入され、キリシタン大名のあいだで流行した。
 豊織政権時代に日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスは「日本人は野犬や鶴、大猿、猫、生の海草などを食べる」と書いており、当時の日本では肉食は普通のことであったらしい。また特に犬肉食については「われわれは犬は食べないで、牛を食べる。彼らは牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる」とも言っているので、日本人は薬喰いと称して犬を食べていたようである。

4.料理物語
 寛永二十年(1643)、徳川家光の時代に書かれた『料理物語』は、江戸時代初期の代表的な料理書で、作法を主としたものではなく、料理材料や調理法を具体的に書いた最も古い書物である。室町から近世初期にかけて上流社会に伝承されてきた料理法の集大成といわれ第一級の料理書である。刊本には異版も多く、広く流布したことが伺える。著名な書であるにもかかわらず、武州狭山で書かれたという以外、著者の身分や名前はわかっていない。その内容から、かなり高い身分にいたのではないかとも言われる。内容は二十の部に分けられ、海の魚、磯草、川魚、鳥、獣、きのこ、青物の七部については、材料名とその料理名のみをあげ、八項目から以下、汁の部、なますの部などは代表的な料理法を具体的に、最後は万聞書の部として、その他の関連事項を記している。
 
『料理物語』のなかに「鹿:汁、かいやき、いりやき、ほしてよし。狸:汁、でんがく山椒みそ、猪:汁、でんがく、いりやき、川うそ:かいやき、すい物、でんがく、いぬ:すい物、かいやき」と肉料理の仕方を伝えている。かいやきはホタテのような大きな貝殻を鍋にして焼く料理のことである。跋文の後に食物の格付けが記されており、獣類の中に「中食の分」として「狗(いぬ)肉」との記述が見られる。この様に他の東アジア諸国と同様に、我が国には食犬文化はしっかりと存在していたのである。
 大道寺友山の
『落穂集』には、「我等若き頃迄は、御當代の町方に於て、犬と申すものはまれにて、見當り不レ申候。若したまさか見當り候へは、武家町方共に下々のたべものには犬にまさりたる物は無レ之とて、冬向になり候へば、見掛け次第に打ち殺し、賞翫仕るに付まゝの義に有之事也」(江戸の町方に犬はほとんどいなかった。というのも、武家方町方ともに、下々の食物としては犬にまさるものはないとされ、冬向きになると、見つけ次第撃ち殺して食べたからである。)と記されている。「犬が居たとすれば、『これ以上のうまい物はない』と人々に考えられ、直ぐに食われてしまう」ような状況であったのである。
 また、薩摩における食犬は有名であったらしく、大田南畝(蜀山人)(1749-1823)の『一話一言補遺』には「薩摩にて狗(いぬ)を食する事」という項があり、「えのころ飯(犬ころ飯)」が紹介されている。犬の腹を割いて米を入れ、蒸し焼きにするもので、島津藩候も食べたという。

5.牛、豚、猿、昆虫に爬虫類、何でも食べた日本人
(古代の養豚)
 古墳時代の家畜は、ウマ、ウシ、イヌ、ブタ、ニワトリなどであった。万葉集には猪養山(いかいのやま)が出てくるし、姓氏録には猪甘首(いかいのおびと)の名が見える。豚を飼育していた場所があり、養豚業者がいたのであろう。元明天皇紀に、筑後守が、畜豚畜鳥を勧める記事が見える。
 時代は下って、江戸中期頃になると養生や体力回復を口実とした「薬喰い」が盛んに行われるようになる。世間にはばかってか、猪肉を牡丹あるいは「山鯨」、鹿肉を紅葉と呼んだ。猪肉も鹿肉も冬場になると脂がのって美味しくなるため薬喰いは冬の風物となった。この薬喰いを、庶民はもとより上は将軍まで行っていたのである。
(江戸のももんじい屋)
 文化文政頃になると、ももんじい屋が現れる。『松屋筆記』に「文化文政年間より以来、江戸に獣肉を売る店多く、高家近侍の士も、これをくろう者あり、猪肉を山鯨と称し、鹿肉を紅葉と称す。熊、狼、狸、いたち、きねずみ、猿などの類獣店に満ちて、其処をすぐるにたへず、またガマをくろう者ありき、いずれも蘭学者流に起これる弊風なり。かくて江戸の家屋は不浄充満し、祝融の怒り(火災)に逢うことあまたたびなり、哀むべし、嘆くべし」と記されていている。江戸の大火が肉食のせいにされている。
 多くのももんじ屋のうち、麹町を中心に甲州屋、豊田屋、港屋などが繁盛したが、中でも麹町の山奥屋、両国のももんじやの2軒が有名であった。山奥屋では猪や猿が名物であったという。幕末に日本を訪れたイギリス人ロバート・フォーチュンは、店先に皮を剥がれた猿がぶら下がっているのを見て「実に気味の悪い姿だった。日本人はどうやら猿の肉をきわめて風味のあるものと思っているらしい」と書き記している。
(牛肉の恨み)
 昔から近江の国は牛の飼養がさかんなところであった。元禄3年(1690)から、彦根藩は「牛肉味噌漬」を考案し、薬用と称して食べていた。そして彦根藩主・井伊侯は、毎年、赤斑牛の味噌漬を将軍および御三家へ薬用として献上していた。『牛肉通』という本には、井伊直弼が牛肉の献上を怠ったところ、牛肉好きの水戸斉昭が、献上の催促をした。直弼侯がこれを断わったのが、水戸公とあわなくなったはじめだという説があったと書いている。

烈公
徳川(水戸)斉昭
徳川斉昭 大老 井伊直弼 井伊直弼


(慶喜が好んだ豚肉)
 
徳川(一橋)慶喜は、好んで豚肉を食べたことから『豚一』とあだ名された。京都の天皇が「朕(ちん)」と自称することから、こんな狂句も生まれたという。「江戸の豚 京都の狆(ちん)に追い出され」森田誠吾著『明治人ものがたり』(岩波新書)

一橋(徳川)慶喜 徳川慶喜

 薩摩藩江戸屋敷では、中間らが残飯で豚を飼い、これを屠ってその肉を食い、さらには売ってもいた。江戸後期の農学者・佐藤信淵(のぶひろ)が著した『経済要録』1827年には「薩摩藩江戸邸で飼われている豚は、その味がことさら上品で、これを普及すべきだ」とある。このように、薩摩では豚肉食の長い伝統があるが、薩摩の名君、島津斉彬と最後の将軍・徳川慶喜が、豚肉を通じてつながりがあった。たとえば、1845年5月2日付けの島津斉彬から慶喜の父徳川斉昭への書簡には、「豚肉進上仕候(つかまつりそうろう)」とある。西郷隆盛は豚骨と味噌汁が好きであった(『南洲翁逸話』1937年)。
 慶応元年から約2年間新選組は西本願寺を屯所としていた。
新選組は本願寺の境内で軍事訓練をするばかりか豚を飼っていた。隊士達の健康管理のために、顧問の松本良順が豚を飼うことを勧めた。豚小屋をつくり仔豚を神戸から取り寄せた。屠殺解体する手順は木屋町の町医南部精一の弟子たちが引き受けてくれたという。寺の境内で豚を屠殺し、煮たり焼いたりすることに堪りかねて本願寺側が苦情を申し出た。しかし、結局立ち退くまで止めなかった。
 大阪の
緒方洪庵の適塾では豚を塾生みんなで食べていたと、福沢諭吉が『西洋衣食住』に書いている。
(ゲテモノ食いの日本人)
 日本人ほど動物蛋白質に忌避を持たぬ民族もめずらしいらしく、昆虫や爬虫類、両生類も食べられたようで、延亨3年(1746)の『黒白精味集(こくびゃくせいみしゅう)』には、蛇、蛙、いなご、百足(むかで)までが食材として上げられているそうである。

長野県、飯田・伊那地方に伝わる食文化「ざざ虫」の佃煮

ザアザアと流れる川の瀬に棲みついている虫の意だが、食用にする虫のみを「ざざ虫」という。実際には「トビケラの仲間」「カワゲラの仲間」「ヘビトンボの仲間」の幼虫などである。

砂糖としょう油で長時間煮て佃煮にする。味は甘ずっぱくほろ苦い。酒の肴に最適という。
ざざ虫

《参考》
谷口 研語『犬の日本史―人間とともに歩んだ一万年の物語』 PHP新書



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