昔の常識、今の常識
今の日本では環境問題に対する関心は極めて高い。なかでも建設廃材などのゴミを野焼きすることによる「大気汚染」、「悪臭」「騒音」などの苦情が多いという。ついこの間までは「大気汚染」などというと工場の煙突から出る煙や車の排気ガスのことであった、やれSOxだの、NOxがどうしたの、というわけだ。ところが最近は「野焼き」によるダイオキシンが目の敵にされている。それもちょっと前まではプラスチックゴミの焼却の際にダイオキシンが発生するという話だったのが、最近では木くずなどを燃やしてもダイオキシンが発生するのだということになっているらしい。正月明けの「どんと焼き」も派手にやったらあきません、とのことである。現代では常識の変遷もすこぶる早い。
さて、「悪臭」といえば思い出すのが、つい最近まで地方におけるトイレの主流の地位を占めていた「くみ取り便所」である。今から考えれば、よくまああんなクサイ所で用が足せたものだと思うが、その当時は不思議でも何でもなかった。更に、その糞尿は良質の「有機肥料」としていったん「野ツボ」と呼ばれる田圃の「肥溜め」でしっかり発酵させて田畑にまいていたのである。人糞をまいた後のにおいはクサイどころの騒ぎではなかったが、それもごく普通のことで、どこからも苦情などなかった。これを今やったらどうか。苦情の殺到は請け合いである。非農家のみならず同業の農家からも苦情は来る。だから今時は人糞有機栽培などはほとんど行われていない。もっと驚くべき昔の「常識」をあきらかにしよう。くみ取り便所のくみ取りをした際に金を払うのは、「くみ取ってもらった方」なのか「くみ取った方」なのかという問題である。今この質問をすれば100人中100人が「当然くみ取ってもらった側である」と答える。しかし、今から50〜60年前ではなんと「くみ取った側が払うのが当たり前」であったのだ。良質の有機肥料をいただく代わりに現金や米などを支払うのである。全く今の常識では考えられないことであるが事実である。
人類の歴史がどれほど続いているのか詳しくは知らない。しかし、現生人類の誕生以来今に至るまで、人間の本質というか本性というか基本的思考には全く変化はなかったと筆者は信じている。すなわち、「食欲」「性欲」「物欲」「権力欲」「支配欲」等々の欲求に変化はないと思う。変化するのはそれらの欲求を満たす内容物だと思う。欲求を満足させるものを価値とすれば、何を価値と感じるかが「価値観」である。価値観は地域や時代により大きく相違している。上に挙げたあまりにも卑近なクサイ例もその一つである。歴史考察において大事な点は、変化するのは価値観であり人間の基本には何の変化もないのだという点を押さえることだと思う。