宗教による縄文人の征服

 筆者は、弥生人非渡来説、つまり縄文人が大陸から文化のみを受容して弥生人になったとする説は「擬似歴史学」であるとの立場をとるものである。したがって、以下は大陸からの武装難民である弥生人が列島に渡来したとの前提で論を進める。

1.神々の戦いと人間の戦い
 洋の東西を問わず、民族間の戦いはそれらの民族の奉じる神の間の戦いであり、人間界における戦争の勝敗はそのまま神同士の戦いの勝敗であった。弥生人たちは、侵略にただ武力のみを用いた訳ではない。周知のように、ヨーロッパの国々は戦争をくり返しては他国を侵略したが、キリスト教は実質的にその先兵的役割を果たした。弥生人による縄文人掃討作戦にもまた宗教が利用されたのである。

2.弥生文化による縄文文化の破壊
 縄文人は大陸からの武装難民である弥生人の手によって自分たちの土地を追われた。弥生人が自分たちの文明をもっているのと同様に、縄文人もまた何千年にもわたる狩猟採集を中心とした独自の高度な文化を築き上げていた。縄文人は農耕文化も、大建築をする文化ももっていた。だが、弥生人は自分たちの価値観でしか縄文人を見ようとしなかった。弥生人は縄文人が、文明ももたない野蛮人であり、縄文人が死ぬのは神が決めたことだと思っていた。縄文人を下等な存在とみなし、自分たちが縄文人を追いやって侵攻していくのは正当なことであると考えていた。弥生人は自分たちのやることは全て正しい、自分たちが絶対であると考えていた。弥生人の侵略に最後まで抵抗した古代東北の蝦夷も、大和朝廷からの度重なる侵略と稲作農民の移住定着によって水田稲作を文化の主体とする大和朝廷に制圧された。

3.「弥生神道=稲作イデオロギー」に基づく縄文人征服
 現代日本人の精神構造の大きな柱ともいえる神道思想は、弥生時代に始まったといわれる稲作文化と密接な関係をもっている。神道の祭りは稲作との関連が強い。奈良時代初期、天武天皇は各氏族・皇族の記録や伝承を編纂し、神道のもととなる神話を整理した。この神話には、天皇による日本の統治の正当性を示すほかに、当時国家の基盤であった稲作の重要性についても触れられていた。稲は、天照大御神が授けたものであると、神話は語り伝えている。日本の古名を豊葦原瑞穂国(豊かに稲がみずみずしく稔る国)ともいうが、稲作は、弥生人にとって神々から授けられた神聖な営みであった。そもそも天皇の使命は、「水穂の国」の稲作りの主宰者として、年穀豊穣・天下泰平の祭りを行うことであったともいう。
 しかし、弥生の水田耕作が始まる前から、列島には縄文人による自然崇拝を中心とする宗教が存在していた。土偶と埴輪を比べてわかるように、縄文人と弥生人の自然観や宗教観は全く異なる。縄文人は日本の気候や風土の中でできた自然信仰、外来の弥生人は祖霊信仰である。変化に富む自然から生まれた八百万の神々と、絶対的存在である日神はあまりに違う。縄文の神は自然そのものであった。礼拝の対象であるご神体も巨岩であったり山そのものであったりした。また、神は恵みをもたらすと同時に、怒りを津波や噴火などで示した。縄文の火焔土器を見ても火山に対する独自の宗教観があった事がわかる。火山の付近にいくつも遺跡が見つかり、火焔土器が出てきた。火山信仰を裏づける発見である。大陸から来た弥生人は縄文人の多神教に驚いたであろう。縄文人を支配するため、弥生人達は、自分たち固有の稲作儀礼、祖先崇拝に縄文人たちの自然崇拝の要素を取り込み、さまざまな祭りをこしらえて、現在「神道」と呼ばれる宗教体系の祖型を整えていった。ご神体も鏡や剣などの金属器であり、縄文のご神体とは全く異なる。
 神社に参ると神主が大麻を振って神主は参拝者の穢れを祓う。中臣氏はこの祓え浄めを神道の中心理論として構築した。禊は自らの浄化儀礼であり、祓は他者あるいは自分を含む集団に対する浄化儀礼である。この禊・祓に対するものが穢れであり、これには不浄物のほかに災厄や他の世界に属するもの(死など)が含まれる。弥生人にとっての米は価値観の源泉であり、稲作を損なうものは「害虫」「害獣」であり、排除されるべき存在である。稲作を妨害する縄文人は「土蜘蛛」「蝦夷」などの虫けらであった。

荒ぶる神を掃討せよ
 ・・・・・荒振る神等をば 神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし磐根 樹根立草の片葉をも語止めて・・・・・(「大祓詞」)
(現代語訳)
・・・・・国内には命令に従わない、数多くの荒々しい神等がいたので、ある時は説得にあたり、それでも従わない場合は、実力行使で排斥した。その結果、ものをいう岩石、樹木や雑草の一枚一枚の葉までもが、口を閉ざしておとなしく・・・・・

4.仏教に基づく縄文人掃討作戦
 古代日本における仏教は支配の道具であった。縄文人の末裔たる東北の先住民文化を根絶やしにするために大和朝廷が使った残酷な常套手段は、王民であるか仏教徒になるかしなければ清らかな人間にはなれないと説くことである。
 724年に即位した聖武天皇は仏教に熱心で741年に国分寺建立の詔を出し、全国の国ごとに僧寺と尼寺が置かれた。一方、律令国家は蝦夷攻略の軍事・行政拠点にあわせて国営寺院を建設した。陸奥の国では比較的に早い時期(767年以前?)に多賀城の造営に伴い、大規模な付属寺院が造られた。秋田城には四天王寺、玉造柵(宮城県)には菜切谷廃寺、胆沢城(岩手県)には極楽寺などである。寺院の建設の目的としては、反抗的な蝦夷に対し、彼らの「異質性」を恥じさせ天皇の民として改宗・改心をうながすためであった。大規模で壮麗な寺院はその威容から陸奥の人々に律令国家の圧倒的な力を印象づけるのに必要であった。また、これらの寺では律令体制に組み込まれた地域の平和を祈り、戦いが起こったときには敵対する勢力が降伏するよう呪術的秘法を行っていたのであろう。
 しかし、実際には、仏教を信仰しても蝦夷はなお「清らか」にはなれなかった。空海は、蝦夷を「羅刹の流(たぐ)いにして非人の儔(ともがら)なり」(人を食う鬼の類であって、非人=悪鬼の仲間である。『性霊集』)とか「人面獣心」とののしっている。平安後期になって、確実に蝦夷にも仏教が浸透しているにもかかわらず、人間でないかのような描写しかされていない。平安時代初期の仏教説話集「日本霊異記」は、外道(仏教徒以外の異教を信じるもの)を描写するときにそれほど差別的な表現はしていない。おそらく、異教徒よりも、蝦夷で仏教を信じている者のほうが議論の余地なく外道あるいは外道以下の存在であったのであろう。

藤原清衡「中尊寺供養願文」
 奥州の藤原氏は、仏教を信奉し、豊富に産出される黄金の力を背景に朝廷と同等に交易し積極的に京都文化を取り入れた。そして、平泉に京都と同じような都市を建設しようとした。それが中尊寺で代表される平泉黄金文化である。しかし、奥州藤原氏は、京都の貴族から「匈奴」「奥のえびす」などと呼ばれ、「奥州の戎狄」と蔑称され、自らも「東夷の遠酋」「浮囚の上頭」と称していたのである。なんと、王民となり仏教徒になっても中央貴族からは「清らかな人間」として認められなかったのである。

弟子者、東夷之遠酋也。生逢聖代之無征戦、長属明時之多仁恩。蛮陬夷落為之少事、虜陣戎庭為之不虞。当于斯時、弟子苟資祖考之余業、謬居俘囚之上頭。

5.秋田子爵家の矜持
 今、多くの東北の人々には、自分たちが蝦夷の末裔であるという意識はない。そういう人々から見れば、蝦夷の英雄である阿弖流為も「朝敵=悪人」でしかない。一方、ほとんどの大名が家系を捏造して先祖を天皇家の末裔などに無理矢理結びつけるのが当たり前の江戸時代に、秋田氏だけは、かたくなに、天皇家に敵対した蝦夷ナガスネヒコを先祖とし阿部貞任の子孫であると称していたのである。この秋田氏は、明治維新後他の大名家と同じく華族に列し子爵になった。その際、「朝敵を先祖とするとは何事か」として問題になったが、「家系の古さこそ我が家の誇り」ということで落着したという。



このボタンを押すとアドレスだけが記された白紙メールが私のところに届きます。


目次に戻る

表紙に戻る