Nemo timendo ad summum pervenit locum.勇敢さを欠いて高位に到着した者はない。

武士道とは何か

 武士道という言葉を聞いて現代人はどのようなイメージを抱くのであろうか。「上官の命令」を絶対なものとして何の疑いもなく受け入れ実行する。或いはいかなる無理難題であろうとも命令となれば服従する。失敗の責任は命令を発した君主ではなく下のものがかぶる。そして主君のために喜んで犠牲になって死ぬ。といったイメージではなかろうか。
 昭和16年に当時の東条英機陸相が公布した「戦陣訓」には、「特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処とす。死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。」とか、「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」とかの有名な文章がある。要するに上官の命令に従って喜んで死ぬことが忠義であり軍人としてあるべき道であるとの教えである。この教えを守って多くの兵士が無駄死にしたといわれている。戦陣訓は皇国の軍人精神をのあり方を示したものだが、我々の抱く「武士道」のイメージはまさしくこの戦陣訓の内容とほぼ一致しているのではなかろうか。

東条英機 「戦陣訓」の作者
東条英機
陸軍大臣のち内閣総理大臣

 ところが、どうも実際の「武士道」は戦陣訓とはだいぶ違っていたようである。『武士道』を英文で著した新渡戸稲造「武士道とは勇猛果敢なフェア・プレーの精神である」と規定している。すなわち、武士道とは不正や卑劣な行動を禁じ、死をも恐れない正義を遂行する精神であるとする。

新渡戸稲造 新渡戸稲造

 また、ある人は、「己の良心を主君のきまぐれや酔狂、思いつきなどの犠牲にする者に対しては武士道の評価はきわめて厳しかった。そのような者は「佞臣」「寵臣」として軽蔑された。主君と意見が分かれるとき、家臣のとるべき忠節の道は、あくまで主君のいうところが非であることを説くことであった。もしそのことが容れられないときは、サムライは自己の血をもって自分の言説の誠であることを示し、その主君の叡智と良心に対して最後の訴えをすることはごく普通のことであった。」といっている。
 少なくとも上官の命令を無条件に聞くわけではなさそうだ。武士道といえば上記の新渡戸稲造の「武士道」または山本常朝の「葉隠れ」、あるいは「新選組」武士道などが有名であるが、新渡戸は300年の泰平を戦士ではなく官僚で過ごした江戸時代の武士の「武士道」である。「葉隠れ」もしかり。新選組に至っては、その構成員にまともな武士階級出身者は皆無である。
 筆者は、
真の武士道を、羽柴秀吉によって水攻めされた備中高松城の城主清水宗治にみる。毛利方の部将であった宗治は、城内の部下の助命と引き替えに見事割腹して果てたのである。上に立つものこそが責任をとる、そのためには自らの命さえ絶つ、それこそが武士道の真髄ではなかったのか。武士が実際、戦士として命を懸けて渡り合った戦国時代にこそ武士道の真の姿を見るべきである。
 しかし、明治の代になっても清水宗治的な武士道はまだ生きていたらしい。筆者は、
軍神広瀬中佐にそれを見る。部下の命を助けるため自らの身の危険を顧みなかった中佐の姿に、未だ武士道の精神を忘れきってはいなかった当時の人々は感動したのだと思う。

広瀬中佐 「杉野は何処!」
旅順港口閉塞作戦における広瀬中佐
軍神 広瀬中佐

 昭和の時代になって武士道が忘れ去られた頃、戦陣訓が現れ、部下を虫けらのようにあつかった牟田口中将などが現れた。混濁の世を憂えて立ち上がった青年将校は銃殺され、奸臣が跋扈する世になった。
 思えば腐敗した平安貴族から自らを守るために立ち上がったのが武士のおこりである。武士達の政権であった
鎌倉幕府は、公平と正義武断によって朝廷と対抗し得たのである。
 上下心を一にして腐敗と無気力の極まった現在の濁世に、武士道精神を持った指導者が現れてほしいと儚い期待を持つ筆者である。



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