徳川家康の謎 徳川家康

要点
史疑 徳川家康事蹟』村岡素一郎 『駿府政治録』に、

「慶長17年8月19日に、家康公が雑談しているなかで『幼少の頃、又右衛門某に、銭五貫で売られ、9歳〜18・19歳まで駿府に住んでいた』と話されたが、家来は一体何の事か理解に苦しむ」

、という内容の文書が実在する。
1.家康は子供の頃、銭五貫文(?)で売られた?
八切日本外史』矢切止夫 『石ケ瀬合戦始末記』には、

「松平好景に追い落されて、石ケ瀬の河原までようやく引かれて来たが、葦草の茂みの中より突然、岡崎の大将(松平元康)が兵を待ち伏せていて、不意に討ってかかって来た。このため防ぎきれずに味方の半分は板倉が率いて山岡へ向かって手薄になった。よってやむなく権現様(徳川家康)自らが槍を振るって突進なされ、岡崎の大将(松平元康)を突こうとされたが、成瀬八郎がこれを止めて、対岸の山へ案内して、しばらく山中に篭もられた」

、という文書が存在し、正史で言う同一人物が戦った事になる。
2.家康は、岡崎の大将(松平元康=家康)と戦った??
徳川家康―その隠された謎の真相〈上巻〉〈下巻〉』木宮高彦 「大仙寺寄進状、前にまいらせ候を、人に御盗まれ候よし、かねて三郎(元信)寄進状を参らせ候。判の事は、未だ何方へも、かようの事にせられ候まま、我々が御判を押して参らせ候。何時もかようの事に判をいたし候はん時、この寄進状にも似せて参らせ候へく候。前の御盗まれ候にも、三文字の判は候ましく候。前の寄進状いたし候物は、盗人にて候へく候。その為にわが身一筆示しいらせ候。返す返す大仙寺の事、道幹(広忠)にも、今の三郎(元信)にも、我々使い申して参らせ候。この寺は、我々が寺の事にて候まま、いつかたのいろこいもあるまじく候。 弘治二年丙辰六月甘四日 大仙寺 俊恵蔵主へ 参る しんさう」

この文書は、元信の母親が書いたとされる文書なのであるが、現在では、しんさうは、家康の父とされる広忠の側室である久子という人物である事が確定している。しんさう(久子)の息子の元信とは、竹千代の改名した元信ではない事になってしまう。
3.家康(=元信)の母は於大(法名:伝通院)であるはずなのに、父(広忠)の側室である久子の息子が元信であるというのはどういうことか。

竹千代→元信
1542竹千代誕生。
1555 竹千代、元服し元信となる。

元信→元康
1558元康、三河寺部城の鈴木重辰を攻める。このころ、元信から元康と改名。
1560 元康、岡崎城に帰還する。
その他 1579信長が信康・築山殿の処罰を命じた。信康を岡崎から三河大浜に移らせ次に、遠江の堀江に移し、さらに二俣城へ移らせる。築山殿を遠江富塚に殺害し、信康を二俣城で切腹させる。 4.長男・三郎信康をなぜ切腹させたか。
家康は今川家の家来たちにずいぶん酷い目に遭わされ、立場が逆転したときにその者たちに復讐したというのに。晩年どういうわけか、駿府に居を定めた。 5.晩年、駿府に居を定めたのはなぜか。
健康に細心の注意を払っていた。鷹狩りを好み山野を駆け回り体を鍛えた。運動が健康のためによいということを知って実践していた。 6.どこで、病気や薬の知識を習ったのか。
薬の知識が豊富で家来の病には自分で調合した薬をあたえた。
遊女が梅毒や淋病の感染源になることを知っていて、これらの女性と接しなかった。
大名は自ら鉄砲を撃ったりはしないのが普通だが、家康は鉄砲の名手であった。 7.いつ、どこで、鉄砲の撃ち方を訓練したのか。
大名の多くは、忍者を使ってはいても、危険なため側には絶対に寄せ付けなかった。ところが、家康は服部半蔵のような忍者を平気で側近くにおいた。 8.何故、忍者を警戒しなかったのか。



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