疑似歴史学(7)
[.疑似歴史学と蝦夷論
現在、「弥生時代が始まる前、一万年あまりにわたって日本列島全体に縄文人が居住していた」こと、「古代東北の蝦夷は縄文人の直系子孫である」ことと、「大和朝廷支配下の人々は弥生人である」ことについては、おおかたの人々の同意があると思われる。一方、大和朝廷支配下の「日本人」と古代東北の蝦夷は人種的に同じであるか否か、については未だ意見の一致を見ていないようである。筆者の見るところ科学的な議論としては既に決着はついているのであるが、「心情的」動機に基づくと思われる「抵抗勢力」の疑似科学的反論によってコンセンサス形成ができていないのである。それはなぜか、下に示したように、大和朝廷支配下の「日本人」と古代東北の蝦夷が人種的に同じであるか否かによって、弥生人が外来の侵略者であるか否か、すなわち日本の伝統的支配層が外国からの移住者の末裔であるか否かが決まるからである。
(1)大前提:@弥生時代が始まる前には日本列島全体にわたって縄文人が住んでいた。
A古代東北の蝦夷は縄文人の直系子孫である。
B大和朝廷支配下の「日本人」は弥生人である。
小前提:大和朝廷支配下の日本人と蝦夷は人種的に同じである。
結論:弥生人は縄文人の直系子孫である。
→弥生人は外国からの移住者ではない。
→日本の伝統的支配層は固有の日本人であって外国人の末裔などではない。
→日本は皇室を宗家とする家族的単一民族国家である。
(2)大前提:@弥生時代が始まる前には日本列島全体にわたって縄文人が住んでいた。
A古代東北の蝦夷は縄文人の直系子孫である。
B大和朝廷支配下の「日本人」は弥生人である。
小前提:大和朝廷支配下の日本人と蝦夷は人種的に異なる。
結論:弥生人は縄文人の直系子孫ではない。
→弥生人は外国からの移住者である。
→日本の伝統的支配層は外国人の末裔である。
→日本は複合民族国家である。
そこで様々な権威ある妄説が登場する。
1.「東北人はみな西からの移民である」との説
現在の東北人は蝦夷の末裔ではないと主張する人々は多い。また蝦夷の末裔ではあるものの蝦夷(エミシ)は決してアイヌではないと主張する人々もまた数多い。例えば、柳田国男は『雪国の春』で、現在の東北人がみな、中世に稲を携えて北へ移住した移民の子孫であるとした。蝦夷が残らず去った後、西から移民してきた人々の末裔が東北人であるというのである。しかし、少なくとも北東北については、そうした仮定を支えるに足る現実的な根拠は認められない。蝦夷系の人々がことごとく滅亡し、あるいは北海道に撤退したあとに、和人が大挙して移り住んだといった形跡はない。
2.「毛人」は「異人」であるとの説
一般に「エミシ」と訓むとみなされている語には、「蝦夷」「夷」「毛人」などがある。高橋富雄氏は、「毛人の訓は本来ケヒトで、しかもケヒトははじめ異人(けひと)だった。」と説く。つまり「毛人」からは多毛とされるアイヌが想像されるので、それではまずいとの底意である。
「毛人」は「異人」であったというが、それならはじめから「異人」と書けばよいのではないか。「異」は「もののけ」の「け」とおなじで「異」と書いてケと読ませる用法は他にもあるのではないか。また万葉仮名には、「飛鳥」と書いてアスカ、「日下」と書いてクサカと読ませるよう用法等もあり何も「異人」をわざわざ「毛人」とかく必要性はない。さらに、奈良時代の音韻において「毛」の「け」はke:と表記される乙類であるのに対し、「異」の「け」は甲類keである。仮に「毛人」が「異人」を意味したとして、そのような言葉を、中国皇帝に対する上表文の中で用いることが本当にあり得るのか。上表文の中で中国の朝廷で理解されない語を使うはずはない。中国語で「毛」が「異」を意味することがあり得るのならともかく、「異人」の意味で「毛人」と記したとはとても考えられない。
「蝦夷」の語は中国において発音された可能性があるという。「日本書紀」斉明五年に載る「伊吉連博徳書」によると、遣唐副使、津守連吉祥たちは連れていった「蝦夷」の男女二人を見せつつ、唐の皇帝高宗と「蝦夷」の語を使って会談している。そして高宗みずからが「これらの蝦夷の国はどの方にあるのか」とか、「蝦夷には何種あるのか」と尋ね、それに副使が答えているのである。「蝦夷」の語は中国で使われ、中国でも通用するものであったことになる。高宗は「蝦夷」を何と発音したのであろうか。おそらくは「カイ」に近い音であったであろう。
「蝦」の字義は、ガマガエルあるいはエビである。松浦武四郎は、北エゾの地でアイヌのことを「カイナー」(女子は「カイナチー」)と呼ぶのを聞き、アイヌの古老アエトモに尋ねたところ、「カイとは此国に産れし者の事」と答えたという(6)。松浦は、官人の前に進み出るときのアイヌ人たちの、腰をかがめ足を引きずる姿が、エビの姿によく似ていることを思い出し、そこから一つの非常に大胆な仮説を思いつく。それは、かつて「蝦夷」が唐に連れて行かれたとき、その唐の国が「蝦夷」の字を作り、「カイと」呼称したのが始まりではないか、という説である。斉明五年に唐に連れられて行った「蝦夷」の姿を見て、高宗皇帝が彼らを「蝦夷(カイ)」と名づけた。そして『日本書紀』編集のとき、「夷」をさらに強め、より未開で、より強力かつより反抗的な者たちを貶めて言う言葉になっていったと考えるのである。
3.「エミシは美称」との説
高橋富雄氏は、平成三年十二月発行の『古代蝦夷を考える』の中で、「蝦夷」の訓みはもともと「エビス」であって、それは狂暴の貶称である。弓人(ユミシ)から転訛した勇者の美称である「エミシ」とはもともと区別されていたといっている。
「愛瀰詩(えみし)烏(を) 毘ダ利(ひだり) 毛々那比苔(ももなひと) 比苔破易陪廼毛(ひとはいへども) 多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)」
(『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年十月の条に載る久米歌)
皇軍に殺された者たちは、ヤマトに入ろうとする神武の軍に、国見丘で撃破された八十梟帥(やそたける)の「余党」たちである。「えみし」は、ヤマトの一地域の原住者であり、高橋富雄氏が言うような「あずまの勇者」というわけではない。
武内宿禰、東国より還(かへりまうき)て奏(まう)して言(まう)さく、「東の夷の中に日高見国(ひたかみのくに)有り。其の国の人、男女並に椎結(かみをわ)け身を文(もどろ)けて、為人(ひととなり)勇みこはし。是を總べて蝦夷と曰ふ。亦(また)土地沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取りつべし」とまうす。(『日本書紀』景行二十七年二月)
(現代語訳)
東国を巡視して戻った景行天皇の臣・武内宿禰の報告によると「東夷の中に、日高見の国がある。その国の人たちは、男女ともに槌のような形の髷を結い入れ墨を入れている。その人と為りはどう猛である。この人々を総て蝦夷という。また土地は肥沃で広大である。征服するべきである。」とのことであった。
其の東の夷は、識性(たましひ)暴(あら)び強(こは)し。凌犯(しのぎをかすこと)を宗とす。・・中略・・其の東の夷の中に、蝦夷は是(これ)尤(はなは)だ強(こは)し。(景行四十年六月)
(現代語訳)
東の国の人々は性質が凶暴で乱暴ばかりしている。国を治める人がいないので、領地争いばかりしている。山には悪い神、野には悪い鬼が住んで、道を通る人に悪いことをしたり、苦しめたりしている。中でも最も強いのが蝦夷(えみし)である。
「えみし」は「強者(つわもの)」であり「勇者」である。しかし、「つわものである」ということが、「えみし」の属性であるとの意であって、決して「えみし」という言葉そのものが「強者」という意味を持つというわけではない。「えみし」とは忍坂のあたりにいる、国見丘の戦いでも少しも傷つかなかった敵の名である。
「えみし」は美称であると言うが、その当時「敵ながらあっぱれ」であるから美称を使うと言った例が記・紀の他の部分や中国の史書にあるのであろうか。大和にいた「えみし」が皇軍にとって異民族であれば、古代の常識からいってもまず絶対美称を使ったりはしないと思う。
よくはわからないが、「エミシ」は美称、「蝦夷」は貶称、とすることであくまでも政治的な立場で敵を褒めたり貶したりしただけの名称に過ぎず、決して人種や民族の違いを言っているのではないといいたいのであろう。
\.奥州藤原氏のミイラによって「蝦夷≠アイヌ」を証明しようとするまやかし
昭和25年春、奥州藤原氏四代の遺体の調査が、医学・人類学をはじめ歴史学・生物学・植物学などの専門家16名からなる学術調査団によって実施された。この調査は、戦後初の学際的な調査として全国的な注目を浴び「中尊寺と藤原四代」として報告された。
藤原氏四代の遺体調査には、形質人類学の長谷部言人・鈴木尚が参加し、その人種的帰属について検討を加えた。長谷部は、「4遺体ともアイヌ的面影はない。しかし、4人が蝦夷でないとはいえない。むしろこの地方の蝦夷の特徴を代表するものかもしれない。」と論じた。また、鈴木も、藤原一族は日本人的特徴がはなはだ多く、アイヌと考えるより日本人と考える方が穏当であると述べ、長谷部と同様、藤原氏はアイヌではない、とした。
初代清衡は「東夷の遠酋」「浮囚の上頭」と自称していた。また二代基衡は「匈奴」「奥のえびす」などと呼ばれ、三代秀衡も「奥州の戎狄」と称されていた。このことから、藤原氏は、安倍氏・清原氏と並んで蝦夷であり、それらの遺体を調査して蝦夷がアイヌであるか否かをはっきりさせようというのである。しかしこれはとっても眉唾な議論である。
俘囚とは帰順した蝦夷であるが、おそらく安倍氏も清原氏もそして藤原氏も朝廷によって進められた同化政策の影響を当然受けていた。奥州に安倍氏が出現するずっと以前から、朝廷は蝦夷に中華(大和朝廷)の文明を伝え、彼らを同化せしめるため、帰服した蝦夷を「内地」に移配して彼らの勢力を殺ぐと同時に、「内地人」を続々と蝦夷の地に移すという政策を行っていた。なんのことはない、人間の入れ替えをやったのである。
続日本紀の記事から、以下にその例を示す。
和銅七年
十月二日 勅が出され、尾張・上野・信濃・越後などの国の民、二百戸を割いて、出羽の柵戸に移住させた。
霊亀二年
九月二十三日 従三位中納言の巨勢朝臣麻呂が次のように言上した。
出羽国を建ててすでに数年を経たにもかかわらず、官人や人民が少なく狄徒もまだ馴れていない状態であります。しかしその土地はよく肥えており、田野は広大で余地があります。どうか近くの民を出羽国に移し、狂暴な狄を教えさとし、あわせて土地の利益を向上させたいと思います。
これを許された。そこで陸奥国置賜・最上の二郡および信濃・上野・越前・越後の四国の人民をそれぞれ百戸宛出羽国に付属させた。
養老三年
七月九日 東海・東山・北陸の三道の人民二百戸を出羽柵に入植させた。
養老六年
八月二十九日 諸国の国司に命じて柵戸とすべきもの千人を選ばせ、陸奥の鎮所に配置させた。
神亀二年
閏正月四日 陸奥国の蝦夷の捕虜百四十四人を伊予国に、五百七十八人を筑紫に、十五人を和泉監にそれぞれ配置した。
天平宝字元年
四月四日 不孝・不恭・不友・不順の者があれば、それらを陸奥国の桃生き・出羽国の小勝に配属し、風俗を矯正し、かねて辺境を防衛させるべきである。
天平宝字三年
九月二十七日 坂東の八国と越前・能登・越後の四国(越中脱落)の浮浪人二千人を雄勝の柵戸とした。また相模・上総・下総・常陸・上野・武蔵・下野の七ヶ国から送られてきた兵士の武器を一部保留して、雄勝、桃生の二城に貯えた。
天平宝字六年
十二月十三日 乞索児(ほかいびと)百人を陸奥の国に配属し、すぐに土地を与えて定着させた。
神護景雲元年
十一月二十日 贋金造りの王清麻呂ら四十人に、鋳銭部の姓を賜って、出羽国に配流した。
神護景雲三年
六月十一日 浮浪の人民二千五百人あまりを、陸奥国の伊治村に置いた。
宝亀七年
九月十三日 陸奥国の俘囚三百九十五人を太宰府管轄内の諸国に分配した。
このような長期にわたる朝廷の同化政策によって、俘囚と呼ばれた人々は遺伝的にも「内地人」との混血が進んでいたと思われる。また、有名な「年をへし糸の乱れの苦しさに、衣の舘はほころびにけり」の義家と貞任のやりとりでも示されるとおり、すくなくとも安倍氏などの支配層は相当に朝廷文化に染まっていたことがわかる。俘囚の一般庶民にくらべて、さらに和人との混血が進んでいたのではないか。さらに、清衡の父藤原経清は中央の藤原氏の一族である。藤原経清の妻は、貞任の妹であった。藤原経清と同じく和人である平永衡の妻も貞任の姉妹であった。このように奥州藤原氏は遺伝形質が和人化していたのである。藤原4代のミイラが和人的でないから「蝦夷≠アイヌ」であるとの結論を出すのは全く非論理的であるというべきである。もっと驚くべきは、長谷部が「蝦夷とは何か」という点を明らかにしないでおきながら、藤原4代の身体的特徴が地方の蝦夷の特徴を代表するものかもしれないといっていることである。さらに、長谷部は縄文人骨と弥生人骨の著明な相違を、「縄文人が文化の激変によって弥生人になったからだ。」と説明しているのである。それならば京都文化に浸っていた奥州藤原氏も文化の変化による骨格の変化であると説明すべきではないのか。それを、現代アイヌ人や現代の和人と比較して「骨格がアイヌ的でないのでアイヌではない」などと断定するのは、まさに自家撞着としか言いようがないではないか。東北出身の長谷部は、帰省の度に東北本線の車中で乗客を観察して、「この人こそアイヌ系である」という人にあったことがないといっている。長谷部の理論に従えば、大和の文化になじんで数千年を経過した近現代の東北人であってみれば、当然にアイヌ的な形質がなくなるはずではないのか。
昭和62年、埴原和郎は、鈴木が遺体から直接計測した頭骨のデータを用い、多変量解析法と呼ばれる分析を行い、奥州藤原氏がアイヌであることはほぼ完全に否定されること、藤原氏は元来東北に土着していたのではなく、もともとは京都出身である可能性が相当に高いことを公表した。同時に、アイヌと和人はともに縄文人を祖先とするが、渡来人の影響を強く受けたか否かによって分離してきたのであって、古代史上の蝦夷(エミシ)は、その分離の途中にあり、現代的な意味でのアイヌでも和人でもないといっている。
「ある民族を滅ぼすには、まず歴史(記憶)を消すことだ。」という。縄文人の末裔たちは自分たちの歴史を忘れ去ってしまったのであろうか。いま岩手などでは、蝦夷の末裔としての誇りを子や孫に語り継ごうという人々がけっして稀ではないという。縄文人の末裔が、その先祖の歴史を取り戻し、その歴史を誇るときが近いことを願いたい。(※)
(※)
東北人は、長いあいだ、心の中に、密かなる誇りを抱きながら、蝦夷の後裔であることに、耐えてきた。そして自分が、アイヌと同一視されることを頑強に拒否してきた。蝦夷は人種的概念ではなく、ただの政治的概念にすぎない、そして、「蝦夷はアイヌではない」そういう結論は、東北人にとってのぞましい、はなはだ願わしい結論のようであった。このような願わしい結論にそって、東北を、古くから倭人の住む、古くから稲作農業が発展した国と考える見解が、戦後の東北論の主流であったように思われる。それは東北人を後進性の屈辱から救うものであったとしても、かえって東北特有の文化の意味を見失うことになると思う。
蝦夷の子孫であることが、蝦夷の後裔であることが、なぜわるいのであろう。アイヌと同血であり、同文化であることを、なぜ恥としなくてはならないのか。日本は平等の国家である。幕末に戦った二つの権力、薩長方も徳川方も、平等に日本国民としての権利と義務をもっているのではないか。倭人と蝦夷の対立はもっと昔のことなのである。その昔の対立が、なぜ現代まで差別になって生き続けねばならないのか。蝦夷の子孫であること、アイヌと同血であることを、恥とする必要はすこしもないのである。
『日本の深層―縄文・蝦夷文化を探る』 梅原猛、集英社文庫 より